2011/12/29

非日常から日常へ。多様性を受け入れる空間をもっと大切にしていくこと−− コワーキングを見て回って感じたこと。

Coworking
photo by Morinoko on flickr

2011年は、コワーキングという単語をよく目にするようになりました。
日本各地で多くのスペースが生まれ、様々な人たちが関わり、注目もしてきたような一年だった気がします。

そもそも、なぜコワーキングがいま盛り上がっているのか。
色んな人などに取材をしている傍らで、そう思うときがよくあります。

もちろん、「アイディアや知識の共有〜、」「フリーランスやスタートアップの人たちが〜、」「コミュニケーションが〜、」などなど、字面上は色々な言葉がでてきます。

しかし、そのどの言葉をもってしても、すべてを形にしているものはないのではと思います。

コワーキングという単語が持つ意味は、人それによって違います。100人いれば100人それぞれの言葉やイメージをもっています。
それでも、それぞれの形、見ているもの、根底にあるものは共通していたりするものかもしれません。言い方が違えど、相手が言ってることと自分の表現しようとしているものは、言い方は違うけど、「分かる分かる」と思えるものこそ、まさにそれです。

もとをたどれば、コワーキングという言葉を聞く前から、僕などは”コワーキング”と現在呼ばれるような原体験があるのかもしれない。

例えば、Twitterなどで「渋谷のスタバにいる」とツイートしたときに、それをたまたま見た友人などが、「近くにいるからちょっと顔だしていい?」「いいよー」
という流れから、偶然的に友人とスタバでお茶をする。
僕は本を読んでて、相手はパソコンでなにか作業などをしている。
もちろん、なにか共通のネタで話すことがあれば話が盛り上がるし、話が終わったりすれば、互いにそれぞれ別のことをやったりして時間を過ごす。
たまに、何か思いつけば「そういえばこれ、どう思う?」
などのように話しだして、そこから面白いアイディアが生まれたりする。
そして、互いに別の予定があれば別々に分かれる。

これは1つの例かもしれないが、こういった一連の流れに対しても、理解をしてくれる人はいると思う。これも、ある意味で”コワーキング”的なものの源泉なのかもしれない。

上の例にあげたような行為は、別にコワーキングという言葉を知らなくても起こりえる現象だとも思う。
そして、そうした、ふらっと足を運んだり、相手と気軽にコミュニケーションしたりすること、自分の考えてることをオープンにしたり、考えを相手とシェアするということは、彼らはとくに「オープンにしなきゃ、シェアしなきゃ」という発想を念頭に置いてやっているわけではない。自然発生的に、そうしているのだ。
もっと言うと、自分が好きだからそうするのかもしれない。それはまさに、彼にとっての精神や文化と呼べるものなのかもしれない。


18世紀当時のロンドンのカフェで行われたコーヒーハウスでのおしゃべりでも、まさにそうだったのかもしれない。それは、いまでは公共圏という呼び名で呼ばれていたりするが、別に彼らは自身で公共圏をつくろうと思っていたわけではない。ただ、他者とコミュニケーションをしていくことが楽しく、それによって相手と作り上げていくものが、新しいモノや価値、ときには時代を作り上げていくものだったりする。
そうして、いまの僕らのように、未来から見たときにそうしたエポックメイキングなものだったと気付かされる。

そしてそれは、とくに自分たちでそうした「何か」を作り上げていこうと掲げてやっていったものでもなく、気づいたら自然発生的にでき、何か新しいものを作る喜びを持っている人たちや、ときに落ち込んだり、何をしていいのかわからないけど、何かしたい、という人たちを受け入れる場所だったのかもしれない。
それは、その”場”が何かを要求しているものではなく、そこにいる”人”がそうした文化を作り上げていったものなんだ。
場所は、そうした”人”を受け入れる器であり、プラットフォームであるのだ。

ときには、そのスペースにいても、特になにもしない人がでてくるのかもしれない。そして、「何もしない」という人も受け入れる、そうした多様性を受け入れる寛容さと、心地よさがあったからこそ、多くの人がそこに集い、時を過ごし、様々なものが創発されていったのだろう。

「コミュニティ」と呼ばれるものを考えたときに、「何かをする」ことだけがコミュニティにいる理由ではない。「何もしない」ことも受け入れる、ある種のセーフティーネットのような形があるからこそ、そこから、「何かをする」機会が生まれたりすることもあったりする。そうした多様性を享受し、経験していくことが重要だったりする。

いまの日本のコワーキングを色々と見てきて思うのは、コワーキングスペースはコミュニケーションをする場、オープンな場、というイメージが多く、ある意味でアクティブな人たちが集うような場所の印象が強いところもなくはない。
また、他のスペースと競合〜という話をするような、ある意味で不動産業的発想をもってやっている人たちも少なくない。
(もちろん、そうでない人も多いので、別にすべてのコワーキングをそう思っているわけではない)

またスペースをオープンにしていれば誰が勝手にやってくる、と考えている人も少なくない。しかし現実はそうではない。
水と同じで、常に動かしつづけて流動されないと、滞留して、ときに水が腐ってしまうことが起きる。
人はナマモノであり、つねに変化し続けるものだ。
だからこそ、スペースをやっている人も”人”であり、来る人も”人”。それは、「人対人」との関係の中で築きあげていくものである。
それはいわばソフトの面の大切さでもあり、ハードの面、例えば設備や金額などのプライスなどの機能面など、合理主義的な発想で図ることはできない。

そして、コワーキングスペースというものに対して、あまりに大上段的な意識をもっている人も少なくない。

「何かしなきゃ!」「コミュニケーションしなきゃ!」「オープンにしなきゃ!」「シェアしなきゃ!」というような、”コワーキングスペース”という大上段のお題があり、オープンにすること、コミュニケーションすること、というところをあまりにフォーカスし、それを強要する流れもなくはない。
もちろん、それも合っていいと思し、そういうものを完全に否定しているわけではない。

だが、コミュニケーションすることが目的ではないと思う。
一緒にスペースで作業することが目的ではないと思う。

オープンマインドであること、ペイ・フォワードな精神をつくり、そこから何か新しいものが生まれるのではないか、というワクワク感や楽しさがそこにあることが大事で、もっと日常的にそうした文化を醸成していくことがこれからは大事になってくるのだろう。
まだまだ、コワーキングというものがある種の「非日常」的空間として捉えられがちなものがあるが、これが「日常」になったときに、そこに携わっている人たちがどういう行動を取っていくのか。
そこを、もっと大事にしていく必要があるのではないだろうか。

IMG_6639


まだまだ、シェアしていくこと、コミュニケーションしていくこと、同じ空間で作業したりしていくことが目的にしている人も少なくない。
なにも、仕事を必ずしもする空間でなくてもいいと思う。
必ずしもコミュニケーションしなければいけない、場でもないと思う。
目線はそこではなく、もっと自然体で在り続けていくことこそ、大切にしていくポイントなのだと思う。

そうした中で、オープンでいること、何かをシェアしていくこと、他者とコミュニケーションしていき、自分と相手との価値観の違いに気づき、相手の話を傾聴していき、相手の話を受け入れるようなマインドを、もっと大切にしていく、そんな空間で在り続けてほしいと考える。

何かをアクティブにするだけが行為ではない。
何かを受け取ること、他者が発するモノを受け入れること、そこから自己も形成されていく。誰しもが一人で生きているわけではない。誰かに何かを教えてもらったり聞いたり話をされて自己ができていく。そして、それをまた別の誰かに自分が渡していく。
そうして人は成長し、まわりも変化していき、それが大きくなって世の中や社会も変わっていく。

何も、自分一人で何かを変えることも、新しいチャレンジをおこなうことなんてできない。だからこそ、まわりにいる人を大切にしたり、相手にとって居心地のいい空間や距離感を保つことが、自分に返ってくるのだ。
コワーキングスペースに限らず、そういった考えや価値観、文化がもっとできてくれるような空間が増えていくことが大切だと感じます。

コワーキングカレンダー(https://atnd.org/events/22266)に参加しており、それに合わせてエントリーを書きました。
「コワーキングについて」というよりも、コワーキングを含めた空間やコミュニティについて、書いてみました。

2011/12/08

さよならだけが人生だ

先日、知人の突然の訃報を聞き、通夜へと参列した。

これまでに、親戚や家族をのぞいて自分と近しい人がなくなったのは、これで三回目であった。

自分と年齢などが近い人が亡くなるたびに、いたたまれなくなってしまう。

人の人生は短く儚く、そしてそれは突然やってくるものだ。

しかし、自分がなくなっても、まわりの世界はかわらず動いている。かならず進んでいる。
自分がいったい何を残せるのか。
自分がいた証はあるのだろうか。
まわりの人はどういう思いでいるだろうか。

自分が日々何気なく過ごしている毎日は、誰かが生きたかった毎日なのかもしれない。

井伏鱒二はこんな詩を残している。

この盃を受けてくれ
どうぞなみなみつがしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
(『厄除け詩集』より)

これは、もともとは詩人の于武陵が書いた「勧酒」という漢詩をもとにしている。

勧酒     (酒を勧む)
于武陵
勧君金屈巵 (君に勧む金屈巵(きんくつし))
満酌不須辞 (満酌辞するを須(もち)いず)
花發多風雨 (花發(ひら)けば風雨多し)
人生足別離 (人生別離足る)

君に勧める黄金の盃。
なみなみと注ぐが、遠慮はしなさんな。
花が咲けば、とかく風雨が多い。
人生には別離がつきものだ。(訳語)

さよならだけが、人生だ。
人は生まれた瞬間から、死を約束され、どんなにあがいても死という最後からは逃れられない。
長く生きることが目的ではないかもしれない。
ただやみくもに生きるのでは意味がない。
しかし、人の死は花のように短く嵐がふけば一瞬で散ってしまう。
だからこそ、いまこの目の前にあるお酒を楽しもう。すぐに別れはきてしまうけど、いまはここでつきあわせて楽しんでいるんだから、楽しもうじゃないか。
いま、この瞬間を生きることに無駄なんてない。つねに楽しまなきゃ意味がない。

人生の別れはときとして突然訪れます。
そのときに、悔いのないように生きていたい。
そして、周りの人にも、自分がいてよかったと思われる生き方をしないといけない。

花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ

この言葉を改めて思い出したと同時に、まわりから受けた思いをきちんとカタチにしていかなくてはいけないと強く思った。


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