2012/11/09

未来につながるアクションをしている、という意識をもとう

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先日の日本時間の11月7日、4年に一回のある種のお祭りでもある、アメリカ大統領選の投票結果が発表された。その結果、僅差ながら、オバマ大統領の再選が決まりました。

アメリカは、大統領選にかける時間は、かなりのものになっており、1年以上も議論し、それぞれの党も、あらゆる戦略を使い、新しい国の代表を決めるための活動をしています。このあたりの動きとか、4年前とどう変わってきたか、ということは、また別の機会でまとめようと思います。

「国の代表を決める」ということに対して、これだけ多くの人たちを巻き込み、大きな注目と、大きな期待感や、自分たちで代表を決めるんだ、という意識、自分たちで国を作っていく、という流れが起きていることに、4年前もそうですし、今回の動きをずっとみていても感じるところです。



ところで、先日の11月7日の朝刊の東京新聞の一面に、One Voice Campaignの活動を掲載いただきました。
「変えたい 選挙制度」ということで、いまの変わらない選挙制度に関して、One Voice Campaignが取り組んでいること、僕らが考えていることなどが記載されています。




5月にはじめたOne Voice Campaign。
日本でおきている様々な課題。どんなすべての出来事も、日本という国でおこなう以上、法律や条例に沿って行動しなくてはいけません。法治国家である以上、僕たちのあらゆる生活は、政治と直結していると言っても、過言ではありません。

だからこそ、一人ひとりが、政治と向き合い、ちょっとでも考え、そして、少しでも多くの人が、社会について声をあげたり行動する世の中になってほしい。そのためにも、僕らの声がきちんと届く仕組みにしたい。そんな思いでOne Voice Campaignを立ち上げました。

その中の一つが、「インターネット選挙運動の解禁」ということなんです。いまの日本の公職選挙法では、選挙時には、一切の選挙活動をネットを通じて発信することができない状況なんです。しかし、いまや僕たちの生活において、インターネットはあらゆるところで使われています。そうした、いまという時代のテクノロジーや技術に応じて、法律や仕組みもアップデートしていかないといけません。日頃の政治活動には、ブログやウェブサイトの更新はしているのに、選挙になった途端にTwitterもFacebookも更新できない、という、あまりにおかしい状況では、せっかくの僕たちの声、そして、なにより、立候補や政治活動をしている議員や政党自体の活動が発信できていない状況なんです。

そうした状況をなんとか変えたい。新しい政治参加の形をつくりたい。そこから、次の未来、次の時代をつくる”何か”があると思い、活動しています。自分たちの声が、自分たちの行動が、社会をちょっとでも変える、と信じれること。ちょっとでも、社会と関わりをもっている、ということを実感できること。

起業することでも、会社に入社することでも、NPOで働くことでも、どんなことも社会とはつながっています。そして、政治の意識をもつことも、まさに社会とつながっているんです。僕ら、これからの時代をつくっていくであろう、20代30代こそが、そうした未来に向かっての道を考え、行動することこそ、大事なことだと考えています。

振り返ってみれば、歴史というのは、現在から見れば、過去は一直線の線でいまに通じていると考えがちです。しかし、その時代その時代には、あらゆる選択肢とあらゆる可能性の中の、ほんの何万分の一の道で、いま僕らがいる”今”が形成されているのです。ということは、まだ見ぬ未来は、僕らのあらゆる選択肢によって、いくらでも変えることができるのです。僕らの行動一つ一つが、未来をつくっていくのです。そして未来のどこかの”現代”からみて、僕らが生きている現代を”過去”として振り返ったときに、つまり、自分たちの子孫や未来に生きる人たちにとって、意義のある行動をしたと思ってもらえることが大事ではないだろうか。

そして、未来の歴史家からみて、僕らが生きている2010年台を、ポジティブに語るのかネガティブに語るのか。それは、僕たちが考え、行動し、決断していった先にわかるものだと思います。


そうした、未来につながるアクションを、ぼくはこれからもしていきたいと考えています。


最後に、今回の大統領選で再選を果たしたオバマ大統領の勝利演説の動画を掲載しておきます。

オバマ大統領は、演説で、あらゆる人種、あらゆる人たちが生きる多様性のある社会を作りたい、とも述べています。黒人であろうと白人であろうと、黄色であろうと、ゲイであろうと、レズであろうとストレートだろうと、どんな人も生きれる社会を、僕も作っていけたらと思っています。

2012/10/24

人生の一瞬一瞬を大切にすることの美しさ−Nikon brand story "Tears"

Nikon_brand_story

一眼カメラをもって1年以上たち、カメラをもって撮影したり仕事でも使う機会が増えてきた。そのたびに思うのは、「きれいに撮影すること」だけじゃなく、いかに相手の気持ちや思いや感情、そのときの雰囲気が、カメラというツールを使い、”メディア”として、表現できるのか、ということを、色々なプロな方などの話を聞くたびに、考えてしまう。

 

カメラを使いこなすのではなく、自分がどれだけ相手と同化したり、そのときの思いを表現できるか。

それまで、なにげなく過ごしてきた日々の生活や町並みも、そうした意識をもつだけで、また違ったものに見えてくる。

 

その中で、Nikonの「Nikon brand story "Tears"」は、ただの被写体としてだけでなく、カメラを通じた楽しさや表現、思いを伝えたり、感情を形にするような動画や、素晴らしい写真を撮影している人たちのフォトギャラリーをみることができる。

とくに、このYoutubeの動画は、見ていて、自分たちが生まれてきてからそれまでに感じた、淡い感情や辛かったこと、悔しさや喜び、楽しさ、夢など、人が人生を追って経験するあらゆるものを表現している動画です。

 

これをみると、いかに自分たちの人生は豊かなもので、それでいて、なんて多彩で多様なものなのかと考えてします。と同時に、もっと気持ちを素直に表現すること、感情を表現することの素晴らしさや美しさを思える動画だと思います。

 

カメラや動画というものだけでなく、人の人生をどう考え、そして、その一瞬一瞬の素晴らしい刹那な美しさを表現するか。

そういったものを考えさせられるサイトだと思います。

2011/12/29

非日常から日常へ。多様性を受け入れる空間をもっと大切にしていくこと−− コワーキングを見て回って感じたこと。

Coworking
photo by Morinoko on flickr

2011年は、コワーキングという単語をよく目にするようになりました。
日本各地で多くのスペースが生まれ、様々な人たちが関わり、注目もしてきたような一年だった気がします。

そもそも、なぜコワーキングがいま盛り上がっているのか。
色んな人などに取材をしている傍らで、そう思うときがよくあります。

もちろん、「アイディアや知識の共有〜、」「フリーランスやスタートアップの人たちが〜、」「コミュニケーションが〜、」などなど、字面上は色々な言葉がでてきます。

しかし、そのどの言葉をもってしても、すべてを形にしているものはないのではと思います。

コワーキングという単語が持つ意味は、人それによって違います。100人いれば100人それぞれの言葉やイメージをもっています。
それでも、それぞれの形、見ているもの、根底にあるものは共通していたりするものかもしれません。言い方が違えど、相手が言ってることと自分の表現しようとしているものは、言い方は違うけど、「分かる分かる」と思えるものこそ、まさにそれです。

もとをたどれば、コワーキングという言葉を聞く前から、僕などは”コワーキング”と現在呼ばれるような原体験があるのかもしれない。

例えば、Twitterなどで「渋谷のスタバにいる」とツイートしたときに、それをたまたま見た友人などが、「近くにいるからちょっと顔だしていい?」「いいよー」
という流れから、偶然的に友人とスタバでお茶をする。
僕は本を読んでて、相手はパソコンでなにか作業などをしている。
もちろん、なにか共通のネタで話すことがあれば話が盛り上がるし、話が終わったりすれば、互いにそれぞれ別のことをやったりして時間を過ごす。
たまに、何か思いつけば「そういえばこれ、どう思う?」
などのように話しだして、そこから面白いアイディアが生まれたりする。
そして、互いに別の予定があれば別々に分かれる。

これは1つの例かもしれないが、こういった一連の流れに対しても、理解をしてくれる人はいると思う。これも、ある意味で”コワーキング”的なものの源泉なのかもしれない。

上の例にあげたような行為は、別にコワーキングという言葉を知らなくても起こりえる現象だとも思う。
そして、そうした、ふらっと足を運んだり、相手と気軽にコミュニケーションしたりすること、自分の考えてることをオープンにしたり、考えを相手とシェアするということは、彼らはとくに「オープンにしなきゃ、シェアしなきゃ」という発想を念頭に置いてやっているわけではない。自然発生的に、そうしているのだ。
もっと言うと、自分が好きだからそうするのかもしれない。それはまさに、彼にとっての精神や文化と呼べるものなのかもしれない。


18世紀当時のロンドンのカフェで行われたコーヒーハウスでのおしゃべりでも、まさにそうだったのかもしれない。それは、いまでは公共圏という呼び名で呼ばれていたりするが、別に彼らは自身で公共圏をつくろうと思っていたわけではない。ただ、他者とコミュニケーションをしていくことが楽しく、それによって相手と作り上げていくものが、新しいモノや価値、ときには時代を作り上げていくものだったりする。
そうして、いまの僕らのように、未来から見たときにそうしたエポックメイキングなものだったと気付かされる。

そしてそれは、とくに自分たちでそうした「何か」を作り上げていこうと掲げてやっていったものでもなく、気づいたら自然発生的にでき、何か新しいものを作る喜びを持っている人たちや、ときに落ち込んだり、何をしていいのかわからないけど、何かしたい、という人たちを受け入れる場所だったのかもしれない。
それは、その”場”が何かを要求しているものではなく、そこにいる”人”がそうした文化を作り上げていったものなんだ。
場所は、そうした”人”を受け入れる器であり、プラットフォームであるのだ。

ときには、そのスペースにいても、特になにもしない人がでてくるのかもしれない。そして、「何もしない」という人も受け入れる、そうした多様性を受け入れる寛容さと、心地よさがあったからこそ、多くの人がそこに集い、時を過ごし、様々なものが創発されていったのだろう。

「コミュニティ」と呼ばれるものを考えたときに、「何かをする」ことだけがコミュニティにいる理由ではない。「何もしない」ことも受け入れる、ある種のセーフティーネットのような形があるからこそ、そこから、「何かをする」機会が生まれたりすることもあったりする。そうした多様性を享受し、経験していくことが重要だったりする。

いまの日本のコワーキングを色々と見てきて思うのは、コワーキングスペースはコミュニケーションをする場、オープンな場、というイメージが多く、ある意味でアクティブな人たちが集うような場所の印象が強いところもなくはない。
また、他のスペースと競合〜という話をするような、ある意味で不動産業的発想をもってやっている人たちも少なくない。
(もちろん、そうでない人も多いので、別にすべてのコワーキングをそう思っているわけではない)

またスペースをオープンにしていれば誰が勝手にやってくる、と考えている人も少なくない。しかし現実はそうではない。
水と同じで、常に動かしつづけて流動されないと、滞留して、ときに水が腐ってしまうことが起きる。
人はナマモノであり、つねに変化し続けるものだ。
だからこそ、スペースをやっている人も”人”であり、来る人も”人”。それは、「人対人」との関係の中で築きあげていくものである。
それはいわばソフトの面の大切さでもあり、ハードの面、例えば設備や金額などのプライスなどの機能面など、合理主義的な発想で図ることはできない。

そして、コワーキングスペースというものに対して、あまりに大上段的な意識をもっている人も少なくない。

「何かしなきゃ!」「コミュニケーションしなきゃ!」「オープンにしなきゃ!」「シェアしなきゃ!」というような、”コワーキングスペース”という大上段のお題があり、オープンにすること、コミュニケーションすること、というところをあまりにフォーカスし、それを強要する流れもなくはない。
もちろん、それも合っていいと思し、そういうものを完全に否定しているわけではない。

だが、コミュニケーションすることが目的ではないと思う。
一緒にスペースで作業することが目的ではないと思う。

オープンマインドであること、ペイ・フォワードな精神をつくり、そこから何か新しいものが生まれるのではないか、というワクワク感や楽しさがそこにあることが大事で、もっと日常的にそうした文化を醸成していくことがこれからは大事になってくるのだろう。
まだまだ、コワーキングというものがある種の「非日常」的空間として捉えられがちなものがあるが、これが「日常」になったときに、そこに携わっている人たちがどういう行動を取っていくのか。
そこを、もっと大事にしていく必要があるのではないだろうか。

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まだまだ、シェアしていくこと、コミュニケーションしていくこと、同じ空間で作業したりしていくことが目的にしている人も少なくない。
なにも、仕事を必ずしもする空間でなくてもいいと思う。
必ずしもコミュニケーションしなければいけない、場でもないと思う。
目線はそこではなく、もっと自然体で在り続けていくことこそ、大切にしていくポイントなのだと思う。

そうした中で、オープンでいること、何かをシェアしていくこと、他者とコミュニケーションしていき、自分と相手との価値観の違いに気づき、相手の話を傾聴していき、相手の話を受け入れるようなマインドを、もっと大切にしていく、そんな空間で在り続けてほしいと考える。

何かをアクティブにするだけが行為ではない。
何かを受け取ること、他者が発するモノを受け入れること、そこから自己も形成されていく。誰しもが一人で生きているわけではない。誰かに何かを教えてもらったり聞いたり話をされて自己ができていく。そして、それをまた別の誰かに自分が渡していく。
そうして人は成長し、まわりも変化していき、それが大きくなって世の中や社会も変わっていく。

何も、自分一人で何かを変えることも、新しいチャレンジをおこなうことなんてできない。だからこそ、まわりにいる人を大切にしたり、相手にとって居心地のいい空間や距離感を保つことが、自分に返ってくるのだ。
コワーキングスペースに限らず、そういった考えや価値観、文化がもっとできてくれるような空間が増えていくことが大切だと感じます。

コワーキングカレンダー(https://atnd.org/events/22266)に参加しており、それに合わせてエントリーを書きました。
「コワーキングについて」というよりも、コワーキングを含めた空間やコミュニティについて、書いてみました。

2011/12/08

さよならだけが人生だ

先日、知人の突然の訃報を聞き、通夜へと参列した。

これまでに、親戚や家族をのぞいて自分と近しい人がなくなったのは、これで三回目であった。

自分と年齢などが近い人が亡くなるたびに、いたたまれなくなってしまう。

人の人生は短く儚く、そしてそれは突然やってくるものだ。

しかし、自分がなくなっても、まわりの世界はかわらず動いている。かならず進んでいる。
自分がいったい何を残せるのか。
自分がいた証はあるのだろうか。
まわりの人はどういう思いでいるだろうか。

自分が日々何気なく過ごしている毎日は、誰かが生きたかった毎日なのかもしれない。

井伏鱒二はこんな詩を残している。

この盃を受けてくれ
どうぞなみなみつがしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
(『厄除け詩集』より)

これは、もともとは詩人の于武陵が書いた「勧酒」という漢詩をもとにしている。

勧酒     (酒を勧む)
于武陵
勧君金屈巵 (君に勧む金屈巵(きんくつし))
満酌不須辞 (満酌辞するを須(もち)いず)
花發多風雨 (花發(ひら)けば風雨多し)
人生足別離 (人生別離足る)

君に勧める黄金の盃。
なみなみと注ぐが、遠慮はしなさんな。
花が咲けば、とかく風雨が多い。
人生には別離がつきものだ。(訳語)

さよならだけが、人生だ。
人は生まれた瞬間から、死を約束され、どんなにあがいても死という最後からは逃れられない。
長く生きることが目的ではないかもしれない。
ただやみくもに生きるのでは意味がない。
しかし、人の死は花のように短く嵐がふけば一瞬で散ってしまう。
だからこそ、いまこの目の前にあるお酒を楽しもう。すぐに別れはきてしまうけど、いまはここでつきあわせて楽しんでいるんだから、楽しもうじゃないか。
いま、この瞬間を生きることに無駄なんてない。つねに楽しまなきゃ意味がない。

人生の別れはときとして突然訪れます。
そのときに、悔いのないように生きていたい。
そして、周りの人にも、自分がいてよかったと思われる生き方をしないといけない。

花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ

この言葉を改めて思い出したと同時に、まわりから受けた思いをきちんとカタチにしていかなくてはいけないと強く思った。


2011/11/03

動画から伝わるその街に対する愛情

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街の風景や様子を表現するものとして静止画や動画があると思います。
そうした中その街の魅力を表現するためにどうすればいいのか、とよく考えます。
外から来た人だからこそ街の魅力を発見することもあるでしょう。
また、実際にその土地に住んでいる人が、その土地を愛し、そしてその自分の素直な気持ちを表現することもあるでしょう。

そうした中、最近見た映像の中で、なんども見ては感動してしまう動画があります。

A Year in New York from Andy Clancy on Vimeo.


この動画は、NYに住んでいる Andrew Clancy さんという方が、実際に自分の足で見て回った街の様子を、一眼カメラのCanon 7Dなどで撮影したものを編集した動画です。
自分が先日までNYにいたということもあるでしょうが、この動画からは撮影者の愛情がひしひしと感じると同時に、誇張することなく、自分が見たありのままの街の様子を、一年の中で経た季節の様子を映像におさめています。
この動画を見るたびに、なんてこんなに街を愛してる人なんだろう、と感じさせてます。
彼は、この動画についてこんなことを語っています。

It seemed like a never ending project and you could stay filming life in New York for a long time. But eventually I put my camera down and started to edit. Here’s the end result, it’s a bit rough and ready but that’s life in the Big Apple I guess.

「この撮影は、終わりのないプロジェクトだと思った。しかし私はカメラを置いて映像を編集した。拙いものかもしれないが、これが私が思うビックアップルの生活です」

これほどの気持ちをもって、街のありのままの美しさを感じさせる動画を見たことがなく、この動画を見た瞬間あまりに感動してしまいました。

同じく、NYの街の様子を、今度は軽やかに映しつつ、その美しさに見入ってします動画です。



この動画は、「Life+times」(http://lifeandtimes.com/empire-state-of-mind)というWebに載せられている動画でした。
多種多様なモデルがNYのあちらこちらを軽快な踊りと一緒に街の様子の様々な様子が映しだされています。
起用されているモデルは、白人や黒人、アジア人など、NYの異国の人たちをきれいに表現しており、街やモデルの美しさと、JAY-Zの「empire state of mind」の曲がうまくマッチし、NY全体の楽しさや様子が伝わってきます。

JAY-Zの「empire state of mind」自体が、2009年に誕生した曲ながら、NYを賛美する歌詞からも、NYを表現する曲と言ってもいいものだと感じると同時に、それをうまく街の様子とマッチングしたこの動画も、よく見て曲自体を口ずさんでしまいます。
また、歌詞をじっくり読むと、NYに対する愛情やNYで育ててもらったマインドに感謝する曲がわかります。
NYという街自体が、そこにいるニューヨーカーたちに対する愛情と自信を与え、そしてそこにいる人達がNYという街自体を構成し、NYという街に誇りと尊厳をもって暮らしているのも、漠然とながら感じます。そして、アメリカという街自体の活性の街、世界の街という意識をもっているところなのだと思います。
ちなみに、原曲はこちらです。本家の動画は、まさにその歌詞が示す様子を謳っているまさにそのとおりな内容が素晴らしく、まさにNYの曲というものだと思います。



今度は違った角度から、街を表現している動画を。




ミシガン州の都市グランドラピッズ。ミシガン州の中でも、比較的都市部な街でありながら、ニューズウィーク誌の「アメリカの死にゆく都市ベスト10」に載ったという記事をうけ、それをうけた地元の人たちが立ち上がり、自分たちの街を表現する方法を模索しました。
その中で、街の様子を音楽にあわて、「リップビデオ(音楽に合わせて口パクをする)で街のMVをつくる」というプロジェクトが立ち上がり、街全体が1つになってこの大きなプロジェクトを完成しました。
曲のもとになっているのはドン・マクリーンの名曲「American Pie」(https://www.youtube.com/watch?v=uAsV5-Hv-7U)。グランドラピッズのダウンタウンを中心に、8分以上もあるこの動画なのですが、実はノーカットで撮影されているのです。
動画の制作には、地元ローカルテレビ局や同街を拠点とする映像プロダクションが制作に全面協力。制作費も、地元企業などから寄せられ、40000米ドル以上もの予算が集まったという。

およそ制作やリハーサルのためになんども練習をしたことでしょう。
そして、このMVを作る、というそのために、街全体が一丸とあり、目標に向けるだけのモチベーションは、やはりこの街を愛してるというそれぞれの思いがあったからからこそでしょう。
曲ももちろんだが、このMVを見ながら、映っている人たちの熱い思いや愛情がこれもひしひしとつながり、初めてこの動画を見終わった最後には思わず涙を流し拍手をしてしまうくらい、本当に素晴らしいものでした。

メイキング映像、撮影テスト、リハーサルのそれぞれの動画を見ると、その参加している人たちの熱い思いがさらに伝わると思います。

Behind the Scenes - Grand Rapids Lip Dub - Rehearsal Footage from Skyward Visual on Vimeo.

(メイキング映像)


(撮影テスト)


(リハーサル)


こうしたそれぞれの動画に共通するもの。
それは”その街への愛情”だと思います。
どんなに動画的なスキルやテクニックなどをもっていても、その街や風景の良さを引き出したり映像を撮るためには、ありあまるくらいの思いや愛情がないとここまでのことはできません。
それはつまり、人に対して感動や思いを届けるということは、それだけ、その製作者や撮影者の思いが反映しているということです。
そして、それは動画や作品に限らず、あらゆる行為にも同じことが言えると思います。
どれだけその対象に対して思いを抱けるか、そしてどれだけ情熱や愛情をもって接し、考え、行動できるかだと思います。
それはつまり、ITの技術云々などではなく、どれだけ思いを抱くことができるだけの経験や体験をし、そして感情の起伏をもち、そしてそれを表現したかで決まることだと思います。
ときに嬉しく、ときに悲しく、そしてときに喜ぶ。そんな様々な思いを経験をすればするほど、その対象に対して愛情や思いが比例してくるものだと思います。

自分の仕事に愛情をもって接することができるか、自分の住む街、自分の住む国、自分とつねに接する相手。

どれだけその対象に対して考え思いを抱けているか。今一度考えていきたいと思います。
こうした思いをもつことで、東京や自分の地元だと福岡、そして日本という国を愛することができるか。
そういうことを、もっと考えていけたらと思います。

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