2012/11/11

銀河ライター河尻亨一さんのキュレーターLABからみる、これからの編集者に必要なもの

よく、今という時代は、「情報過多な時代」と言われることがあります。

そうした中、情報を選別し、独自の切り口や意味をもたせるキュレーターやキュレーションという言葉が、ここ最近話題になっています。もちろん、キュレーターやキュレーションの元々の意味でもあるアート・芸術の世界としての意味と、2012年という時代に話題になっている「キュレーター・キュレーション」は、違うかもしれないし同じかもしれない。色んなところに行くたびに、そうした議論が起きます。かくいう自分も、色々なところで、その言葉の定義や意味について、考える機会も多くありました。

もちろん、言葉の定義や意味などは、時代や背景、そのときの情勢などによって変化していくことも多いと思います。なまじっか一つの言葉の定義として定め、かたくなに固辞するべきものでもないと思います。しかし、それでも、先人が築きあげていきた歴史や経緯、言葉がもつ重さなどを踏まえつつ、考えていかないといけないものだと考えます。が、まだ、僕自身も明確なものが言えるとは思っていないので、日々考えていきたいと思います。

そんなときに、元「広告批評」編集長であった河尻亨一さんと出会い、河尻さんが主催する『銀河ライター発「働くキュレーターLAB」―企画して、取材して、書いて、広めて解決する―』という講座が、博報堂ケトルの嶋浩一郎さんと、ブックディレクターの内沼晋太郎さんが中心となって立ち上げた書店B&Bで、9月からおこなわれていました。その講座も、先日の第10回目の講座で一旦終了でした。

そして、その講座の第三回ゲストとして、不肖ながら、私と、同世代でメディアプロデューサー集団KAI-YOUを運営している武田俊さんと一緒に、登壇させていただくことがありました。実際に登壇したのは9月16日と少し前のことだったのですが、講座に参加させてからいままで見させていただき、ただの講座ではなく、実践を踏まえながら体験していく中身であることに、個人的にも関心と感動をおぼえ、自分なりに考察しつつ、河尻さんとそれからも何度かお話させていただく中で感じたことも、少し綴ってみたいと思います。


今の時代に必要な編集的視点と発想

そもそも、「働くキュレーターLAB」の目的とはについて、僕なりの解釈で書いてみたいと思います。

これまで、編集という行為自体は、なにがしかのテーマに沿ったメッセージや記事やコンテンツを設定し、様々な材料を“集め”、テーマに沿うように“編む”ことを、編集と呼んでいました。その多くは大手放送局や出版社、映画など、さまざまな分野、しかも、一般の人達に対して、一定の水準とクオリティーを様々な人たちと協働でつくりあげ、発信・出版・放送するような分野や業種に多く存在していたと考えられます。

そして、いまの2012年という時代。インターネットも普及し、ブログやホームページが、そこそこに簡単なものであれば誰でもつくることが可能な環境になってきました。そして、mixiやTwitter,FacebookなどのSNSの発展は、これまで情報を受信ばかりしていたものが、あらゆる情報を自分たちが発信できる時代(そして、発信しているという自覚なしに発信しているという時代)になっていると、考えられています。

そうした中で、これからの情報の価値やコンテンツの価値、そして、なにかを企画し、コンセプトをつくり、発信し、活動していくということが簡単になっているからこそ、しっかりと学び、考え、経験し、実践していかないといけないものだと感じることも多くなりました。なにかを発信すれば誰がが反応してくれたりと、自己承認という欲求と、即時的な反応による満足は、ときに人やモノやコンテンツとしての質すらも変化する可能性ももっています。「誰でも時代」ということは、「総アマチュア」な時代にもなりかねない。それは結局のところ、全体としてのクオリティーが低下し、結果として将来や未来にとって価値のないものばかりが流布してしまうことになります。

そうではなく、プロである編集者であるために、いまの時代を読み、いまの時代の少し先を行きつつ、考えを練り、そして社会にとって意義のある行動をしていかないといけない。そのために、いまの時代がどうあるか、そして、これからの時代をどう読みとり、そして考えていくか。編集者としてどう生きているか、ということについて議論し、考える場が必要なのだと感じます。そうした考えのもとに、実際に現場で活動されている人などの話を聞きつつ、話を踏まえた上で、課題や企画を考え、実践していための“場”として、キュレーターLABはあるのだと思います。

ラボで話をしたこと


そんな中、僕と武田くんはその第三回のラボのゲストとして呼んでいただきました。元々河尻さんとは、2011年におこなわれた同志社の裏EVEというイベントでご一緒し、そこで初対面だったにも関わらず、河尻さん、そして津田大介さん、関西ウォーカー編集長の玉置さんらと僕という並びの中、20代の編集者として切り込んで話をさせてもらったことがきっかけでした。その出会い以降、いろんな所でちょくちょくお会いしお話させていただく中で、僕らの登壇時のテーマである「ネタは“ソーシャル”に落ちてる―SNS×街場連動企画とは?―」ということで、話をしてもらえないかというご提案をいただきました。

打ち合わせでは、河尻さんが僕らに考えていることを踏まえつつ、僕と武田くんそれぞれが見ている世界、見ている未来についてざっくばらんに話をしました。色んな話が飛んではいたのですが、そもそもとして、僕と武田くんは、見ている世界が似つつも、互いに違った手法論で取り組んでいるような感覚で、武田くんの表現曰く「背中合わせで似てる風景を見ている」という感じでした。(そのあたりの、僕と武田くんの話は、また別途書こうかなとも思います)ちなみに、浴衣で参加しているのは意味があるのですが、それは講義参加者か僕に直接聞いてください。

で、事前の打ち合わせ後の本番でも、それぞれの立ち位置や今に至るまでの考え、そして、どういった編集的な手法と発想をおこなっているかについて話をさせていただきました。河尻さん含めた3人ともが、しゃべりだしたら止まらないような性格のようで、ラボの90分間ひたすらしゃべりっぱなりだった気がします。僕らが考えていること、見ていること、そして、これからどういう風に進めていくか、ということについて、なにか感じてもらえたらと思っています。

ちなみに、ラボの様子は、受講生の一人である清水さんのイラストブログにまとまっています。感謝です!

いろんなお話をさせていただいたのですが、僕として言いたかったのは、“いま”を見るんじゃなく“未来”を見て行動してほしい、ということかなと思います。とかくいまを見がちで、目の前の小さな変化や差異にばかり気を取られてしまいそうですが、そうではなく、3歩先な未来を見据え、そして、その中で0.5歩先、1歩先なものとして実現可能なもの、もしくは、チャレンジしがいのあるもの、もしくはこういう流れ、こういうことがあるともっといいのではないか、ということを考えながら、日々アンテナを張りつつ行動し、そして、ちょっと考えてみて、それらをまわりと共有したり、自分なりにアウトプットをしてみたりすることが大事なんじゃないかな、と思っています。

何かを追うよりも何かを作る感覚をもつということは、まだ見ぬ未来だけれども確実にある未来であると信じ、それに向かって自分がいまなにをしていけばいいかを考えることなのかなと思います。ラボの中でも話をしたと思いますが、自分自身を客観的に俯瞰して見、“自分”という存在がこれからどう歩み、どういう行動をとると社会やまわりにとって意味のあるアクションなのか、ということを考えることだと思います。決して自分自身の満足や考えではなく、まわりの存在としても、意味があるか、そして、自分でしかできないことはなにかということを日々考えていくことだと思います。人は一人では生きていけないからこそ、他者といかに協働し、社会が生きやすいものにすることが、結果として自分に返ってくるものだと想像できるか。そこが大事だと思います。

というようなことを、ラボでは話をさせていただきました。編集とかキュレーターということもそうですが、それらすらなにかを達成するための手段であり、その先にある大きな目的をどう据えるかということが大事だと思い、そんな話をしたと思います。手法やテクニックよりも、自分自身がもつ夢や野望や将来像や、これからの世の中をどう見ているか、そしてどう見ていくかということがあれば、いまやっている行為はそこまで問題でないと思います。逆に、いま自分がやっている行為が未来にとってどうつながっているかを想像できれば、どんな仕事も楽しく思えると思います。だからこそ、ラボでは手法的な話よりも、考えや意識をどうもつか、ということを話させてもらいました。


(ラボの様子の写真)


コンテンツではなく、コンテキストをどう作るか

このラボ自体も、おそらく手法やテクニックを教える場にはしてはないと、河尻さんも話をしていました。そうではなく、活動している人たちがなにを考え、どう行動し、どうアウトプットし、どう自分の身にしているのかということを感じさせることを大切にしていると思います。そして、毎度毎度受講生には課題と称し、様々なテーマが課されていました。おそらく、受講生の人たちは毎回大変だったと思います。でもそうした課題も、考えや思考を訓練させる素晴らしい取り組みだあると同時に、数十名いる受講生それぞれが多様な考えや経験、思考をもちいままで生きているんだ、ということを感じさせられます。人によって得意不得意のあるもの、特異なジャンルや苦手なジャンル、デザインが出来る人、発想が斬新な人、文章が上手な人、様々ないます。そしてそれらすべてが、誰が素晴らしいとか、どれがいいということでもなく、自分自身の頭で考え、自分なりのアウトプットをしっかりとし、ラボのメンバーと議論したり語り合ったりすることが大事なんだと、ゲストが呼んでいただいたあともラボに関わった身として感じます。そして、その中にある、河尻さんの受講生らに対する愛情と思いは、何事にも代えがたいものです。

毎回講座が終わるたびに、懇親会などの交流があり、元々の講座以外にも、補講として様々なゲストを呼んで話をしてもらったり、休日にはメンバー同士で読書会や芋煮会などを企画したり、そこから、色々なものが派生したりラボを中心としてコミュニティができているのは、なにものにも代えがたいものだと思います。そして、そこをきっかけに新しい出会いやつながりが生まれたり、自分たちで実践したり、なにかを企画したりという“見えないアウトプット”こそが、ラボの目的でもあるのだと思います。

とかく編集などの仕事に携わっている人は、もちろん自分でコンセプトをつくったり企画をしたり文章を綴ったりという仕事をしていますが、どんな仕事も絶対に一人では成し得ないものばかりです。編集という仕事に携わる以上、他者と協働し、そこから新しい価値や新しいコンテンツ、新しい発想などを生み出し、それらを形にし、しっかりとしたアウトプットをつくっていく。それこそが、編集の仕事であると思います。そして、自分なりの未来を見据え、いまの時代に必要なもの、未来にとって必要なものを考え、どう動き、つながりをつくっていくか。そして、コンテンツを作るだけではなく、コンテンツ同士がつくる“コンテキスト”をどこまで見据えるか。そのコンテキストをどれだけ伝えられるかが、キュレーターとして必要な発想なのだと思います。そうした意味で、どうコンテキストを伝えるか、その材料としてコンテンツがあるのであり、そうした意味では「コンテンツそのものには意味があって意味がない」ということも考えられると思います。コンテンツだけではなく、コンテンツを踏まえたメッセージをどれだけもたせられるか。目の前にあるモノにとどまらず、その先をどれだけ考えられるか。僕自身も含めて、しっかりと考えていかなければいけません。


編集者は、コンテキストをどう作り出すか。これに必要な発想や思考のために、日々行動し、人と出会い、仕事をし、コミュニケーションしながら生きているのだと思うと同時に、河尻さんなりに、このラボを通じて受講生たちに伝えたかったコンテキストがどう伝わったか。これからの受講生や、ラボに関わった人たちが考えていかないといけないものだと思います。もちろん、僕なりにも、河尻さんのコンテキストを受け止めた一人だと思っています。今回のキュレーターLABに関わるすべての人たちにとって、この講義全体を通じて河尻さんが伝えたかったものをどう感じるか。おそらく一人ひとり違った考えや発想があると思いますが、ラボを通じて生まれた“何か”を、ぜひ大切にしてもらいたいなと思います。

2012/11/09

未来につながるアクションをしている、という意識をもとう

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先日の日本時間の11月7日、4年に一回のある種のお祭りでもある、アメリカ大統領選の投票結果が発表された。その結果、僅差ながら、オバマ大統領の再選が決まりました。

アメリカは、大統領選にかける時間は、かなりのものになっており、1年以上も議論し、それぞれの党も、あらゆる戦略を使い、新しい国の代表を決めるための活動をしています。このあたりの動きとか、4年前とどう変わってきたか、ということは、また別の機会でまとめようと思います。

「国の代表を決める」ということに対して、これだけ多くの人たちを巻き込み、大きな注目と、大きな期待感や、自分たちで代表を決めるんだ、という意識、自分たちで国を作っていく、という流れが起きていることに、4年前もそうですし、今回の動きをずっとみていても感じるところです。



ところで、先日の11月7日の朝刊の東京新聞の一面に、One Voice Campaignの活動を掲載いただきました。
「変えたい 選挙制度」ということで、いまの変わらない選挙制度に関して、One Voice Campaignが取り組んでいること、僕らが考えていることなどが記載されています。




5月にはじめたOne Voice Campaign。
日本でおきている様々な課題。どんなすべての出来事も、日本という国でおこなう以上、法律や条例に沿って行動しなくてはいけません。法治国家である以上、僕たちのあらゆる生活は、政治と直結していると言っても、過言ではありません。

だからこそ、一人ひとりが、政治と向き合い、ちょっとでも考え、そして、少しでも多くの人が、社会について声をあげたり行動する世の中になってほしい。そのためにも、僕らの声がきちんと届く仕組みにしたい。そんな思いでOne Voice Campaignを立ち上げました。

その中の一つが、「インターネット選挙運動の解禁」ということなんです。いまの日本の公職選挙法では、選挙時には、一切の選挙活動をネットを通じて発信することができない状況なんです。しかし、いまや僕たちの生活において、インターネットはあらゆるところで使われています。そうした、いまという時代のテクノロジーや技術に応じて、法律や仕組みもアップデートしていかないといけません。日頃の政治活動には、ブログやウェブサイトの更新はしているのに、選挙になった途端にTwitterもFacebookも更新できない、という、あまりにおかしい状況では、せっかくの僕たちの声、そして、なにより、立候補や政治活動をしている議員や政党自体の活動が発信できていない状況なんです。

そうした状況をなんとか変えたい。新しい政治参加の形をつくりたい。そこから、次の未来、次の時代をつくる”何か”があると思い、活動しています。自分たちの声が、自分たちの行動が、社会をちょっとでも変える、と信じれること。ちょっとでも、社会と関わりをもっている、ということを実感できること。

起業することでも、会社に入社することでも、NPOで働くことでも、どんなことも社会とはつながっています。そして、政治の意識をもつことも、まさに社会とつながっているんです。僕ら、これからの時代をつくっていくであろう、20代30代こそが、そうした未来に向かっての道を考え、行動することこそ、大事なことだと考えています。

振り返ってみれば、歴史というのは、現在から見れば、過去は一直線の線でいまに通じていると考えがちです。しかし、その時代その時代には、あらゆる選択肢とあらゆる可能性の中の、ほんの何万分の一の道で、いま僕らがいる”今”が形成されているのです。ということは、まだ見ぬ未来は、僕らのあらゆる選択肢によって、いくらでも変えることができるのです。僕らの行動一つ一つが、未来をつくっていくのです。そして未来のどこかの”現代”からみて、僕らが生きている現代を”過去”として振り返ったときに、つまり、自分たちの子孫や未来に生きる人たちにとって、意義のある行動をしたと思ってもらえることが大事ではないだろうか。

そして、未来の歴史家からみて、僕らが生きている2010年台を、ポジティブに語るのかネガティブに語るのか。それは、僕たちが考え、行動し、決断していった先にわかるものだと思います。


そうした、未来につながるアクションを、ぼくはこれからもしていきたいと考えています。


最後に、今回の大統領選で再選を果たしたオバマ大統領の勝利演説の動画を掲載しておきます。

オバマ大統領は、演説で、あらゆる人種、あらゆる人たちが生きる多様性のある社会を作りたい、とも述べています。黒人であろうと白人であろうと、黄色であろうと、ゲイであろうと、レズであろうとストレートだろうと、どんな人も生きれる社会を、僕も作っていけたらと思っています。

2012/10/24

人生の一瞬一瞬を大切にすることの美しさ−Nikon brand story "Tears"

Nikon_brand_story

一眼カメラをもって1年以上たち、カメラをもって撮影したり仕事でも使う機会が増えてきた。そのたびに思うのは、「きれいに撮影すること」だけじゃなく、いかに相手の気持ちや思いや感情、そのときの雰囲気が、カメラというツールを使い、”メディア”として、表現できるのか、ということを、色々なプロな方などの話を聞くたびに、考えてしまう。

 

カメラを使いこなすのではなく、自分がどれだけ相手と同化したり、そのときの思いを表現できるか。

それまで、なにげなく過ごしてきた日々の生活や町並みも、そうした意識をもつだけで、また違ったものに見えてくる。

 

その中で、Nikonの「Nikon brand story "Tears"」は、ただの被写体としてだけでなく、カメラを通じた楽しさや表現、思いを伝えたり、感情を形にするような動画や、素晴らしい写真を撮影している人たちのフォトギャラリーをみることができる。

とくに、このYoutubeの動画は、見ていて、自分たちが生まれてきてからそれまでに感じた、淡い感情や辛かったこと、悔しさや喜び、楽しさ、夢など、人が人生を追って経験するあらゆるものを表現している動画です。

 

これをみると、いかに自分たちの人生は豊かなもので、それでいて、なんて多彩で多様なものなのかと考えてします。と同時に、もっと気持ちを素直に表現すること、感情を表現することの素晴らしさや美しさを思える動画だと思います。

 

カメラや動画というものだけでなく、人の人生をどう考え、そして、その一瞬一瞬の素晴らしい刹那な美しさを表現するか。

そういったものを考えさせられるサイトだと思います。

2011/12/29

非日常から日常へ。多様性を受け入れる空間をもっと大切にしていくこと−− コワーキングを見て回って感じたこと。

Coworking
photo by Morinoko on flickr

2011年は、コワーキングという単語をよく目にするようになりました。
日本各地で多くのスペースが生まれ、様々な人たちが関わり、注目もしてきたような一年だった気がします。

そもそも、なぜコワーキングがいま盛り上がっているのか。
色んな人などに取材をしている傍らで、そう思うときがよくあります。

もちろん、「アイディアや知識の共有〜、」「フリーランスやスタートアップの人たちが〜、」「コミュニケーションが〜、」などなど、字面上は色々な言葉がでてきます。

しかし、そのどの言葉をもってしても、すべてを形にしているものはないのではと思います。

コワーキングという単語が持つ意味は、人それによって違います。100人いれば100人それぞれの言葉やイメージをもっています。
それでも、それぞれの形、見ているもの、根底にあるものは共通していたりするものかもしれません。言い方が違えど、相手が言ってることと自分の表現しようとしているものは、言い方は違うけど、「分かる分かる」と思えるものこそ、まさにそれです。

もとをたどれば、コワーキングという言葉を聞く前から、僕などは”コワーキング”と現在呼ばれるような原体験があるのかもしれない。

例えば、Twitterなどで「渋谷のスタバにいる」とツイートしたときに、それをたまたま見た友人などが、「近くにいるからちょっと顔だしていい?」「いいよー」
という流れから、偶然的に友人とスタバでお茶をする。
僕は本を読んでて、相手はパソコンでなにか作業などをしている。
もちろん、なにか共通のネタで話すことがあれば話が盛り上がるし、話が終わったりすれば、互いにそれぞれ別のことをやったりして時間を過ごす。
たまに、何か思いつけば「そういえばこれ、どう思う?」
などのように話しだして、そこから面白いアイディアが生まれたりする。
そして、互いに別の予定があれば別々に分かれる。

これは1つの例かもしれないが、こういった一連の流れに対しても、理解をしてくれる人はいると思う。これも、ある意味で”コワーキング”的なものの源泉なのかもしれない。

上の例にあげたような行為は、別にコワーキングという言葉を知らなくても起こりえる現象だとも思う。
そして、そうした、ふらっと足を運んだり、相手と気軽にコミュニケーションしたりすること、自分の考えてることをオープンにしたり、考えを相手とシェアするということは、彼らはとくに「オープンにしなきゃ、シェアしなきゃ」という発想を念頭に置いてやっているわけではない。自然発生的に、そうしているのだ。
もっと言うと、自分が好きだからそうするのかもしれない。それはまさに、彼にとっての精神や文化と呼べるものなのかもしれない。


18世紀当時のロンドンのカフェで行われたコーヒーハウスでのおしゃべりでも、まさにそうだったのかもしれない。それは、いまでは公共圏という呼び名で呼ばれていたりするが、別に彼らは自身で公共圏をつくろうと思っていたわけではない。ただ、他者とコミュニケーションをしていくことが楽しく、それによって相手と作り上げていくものが、新しいモノや価値、ときには時代を作り上げていくものだったりする。
そうして、いまの僕らのように、未来から見たときにそうしたエポックメイキングなものだったと気付かされる。

そしてそれは、とくに自分たちでそうした「何か」を作り上げていこうと掲げてやっていったものでもなく、気づいたら自然発生的にでき、何か新しいものを作る喜びを持っている人たちや、ときに落ち込んだり、何をしていいのかわからないけど、何かしたい、という人たちを受け入れる場所だったのかもしれない。
それは、その”場”が何かを要求しているものではなく、そこにいる”人”がそうした文化を作り上げていったものなんだ。
場所は、そうした”人”を受け入れる器であり、プラットフォームであるのだ。

ときには、そのスペースにいても、特になにもしない人がでてくるのかもしれない。そして、「何もしない」という人も受け入れる、そうした多様性を受け入れる寛容さと、心地よさがあったからこそ、多くの人がそこに集い、時を過ごし、様々なものが創発されていったのだろう。

「コミュニティ」と呼ばれるものを考えたときに、「何かをする」ことだけがコミュニティにいる理由ではない。「何もしない」ことも受け入れる、ある種のセーフティーネットのような形があるからこそ、そこから、「何かをする」機会が生まれたりすることもあったりする。そうした多様性を享受し、経験していくことが重要だったりする。

いまの日本のコワーキングを色々と見てきて思うのは、コワーキングスペースはコミュニケーションをする場、オープンな場、というイメージが多く、ある意味でアクティブな人たちが集うような場所の印象が強いところもなくはない。
また、他のスペースと競合〜という話をするような、ある意味で不動産業的発想をもってやっている人たちも少なくない。
(もちろん、そうでない人も多いので、別にすべてのコワーキングをそう思っているわけではない)

またスペースをオープンにしていれば誰が勝手にやってくる、と考えている人も少なくない。しかし現実はそうではない。
水と同じで、常に動かしつづけて流動されないと、滞留して、ときに水が腐ってしまうことが起きる。
人はナマモノであり、つねに変化し続けるものだ。
だからこそ、スペースをやっている人も”人”であり、来る人も”人”。それは、「人対人」との関係の中で築きあげていくものである。
それはいわばソフトの面の大切さでもあり、ハードの面、例えば設備や金額などのプライスなどの機能面など、合理主義的な発想で図ることはできない。

そして、コワーキングスペースというものに対して、あまりに大上段的な意識をもっている人も少なくない。

「何かしなきゃ!」「コミュニケーションしなきゃ!」「オープンにしなきゃ!」「シェアしなきゃ!」というような、”コワーキングスペース”という大上段のお題があり、オープンにすること、コミュニケーションすること、というところをあまりにフォーカスし、それを強要する流れもなくはない。
もちろん、それも合っていいと思し、そういうものを完全に否定しているわけではない。

だが、コミュニケーションすることが目的ではないと思う。
一緒にスペースで作業することが目的ではないと思う。

オープンマインドであること、ペイ・フォワードな精神をつくり、そこから何か新しいものが生まれるのではないか、というワクワク感や楽しさがそこにあることが大事で、もっと日常的にそうした文化を醸成していくことがこれからは大事になってくるのだろう。
まだまだ、コワーキングというものがある種の「非日常」的空間として捉えられがちなものがあるが、これが「日常」になったときに、そこに携わっている人たちがどういう行動を取っていくのか。
そこを、もっと大事にしていく必要があるのではないだろうか。

IMG_6639


まだまだ、シェアしていくこと、コミュニケーションしていくこと、同じ空間で作業したりしていくことが目的にしている人も少なくない。
なにも、仕事を必ずしもする空間でなくてもいいと思う。
必ずしもコミュニケーションしなければいけない、場でもないと思う。
目線はそこではなく、もっと自然体で在り続けていくことこそ、大切にしていくポイントなのだと思う。

そうした中で、オープンでいること、何かをシェアしていくこと、他者とコミュニケーションしていき、自分と相手との価値観の違いに気づき、相手の話を傾聴していき、相手の話を受け入れるようなマインドを、もっと大切にしていく、そんな空間で在り続けてほしいと考える。

何かをアクティブにするだけが行為ではない。
何かを受け取ること、他者が発するモノを受け入れること、そこから自己も形成されていく。誰しもが一人で生きているわけではない。誰かに何かを教えてもらったり聞いたり話をされて自己ができていく。そして、それをまた別の誰かに自分が渡していく。
そうして人は成長し、まわりも変化していき、それが大きくなって世の中や社会も変わっていく。

何も、自分一人で何かを変えることも、新しいチャレンジをおこなうことなんてできない。だからこそ、まわりにいる人を大切にしたり、相手にとって居心地のいい空間や距離感を保つことが、自分に返ってくるのだ。
コワーキングスペースに限らず、そういった考えや価値観、文化がもっとできてくれるような空間が増えていくことが大切だと感じます。

コワーキングカレンダー(https://atnd.org/events/22266)に参加しており、それに合わせてエントリーを書きました。
「コワーキングについて」というよりも、コワーキングを含めた空間やコミュニティについて、書いてみました。

2011/12/08

さよならだけが人生だ

先日、知人の突然の訃報を聞き、通夜へと参列した。

これまでに、親戚や家族をのぞいて自分と近しい人がなくなったのは、これで三回目であった。

自分と年齢などが近い人が亡くなるたびに、いたたまれなくなってしまう。

人の人生は短く儚く、そしてそれは突然やってくるものだ。

しかし、自分がなくなっても、まわりの世界はかわらず動いている。かならず進んでいる。
自分がいったい何を残せるのか。
自分がいた証はあるのだろうか。
まわりの人はどういう思いでいるだろうか。

自分が日々何気なく過ごしている毎日は、誰かが生きたかった毎日なのかもしれない。

井伏鱒二はこんな詩を残している。

この盃を受けてくれ
どうぞなみなみつがしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
(『厄除け詩集』より)

これは、もともとは詩人の于武陵が書いた「勧酒」という漢詩をもとにしている。

勧酒     (酒を勧む)
于武陵
勧君金屈巵 (君に勧む金屈巵(きんくつし))
満酌不須辞 (満酌辞するを須(もち)いず)
花發多風雨 (花發(ひら)けば風雨多し)
人生足別離 (人生別離足る)

君に勧める黄金の盃。
なみなみと注ぐが、遠慮はしなさんな。
花が咲けば、とかく風雨が多い。
人生には別離がつきものだ。(訳語)

さよならだけが、人生だ。
人は生まれた瞬間から、死を約束され、どんなにあがいても死という最後からは逃れられない。
長く生きることが目的ではないかもしれない。
ただやみくもに生きるのでは意味がない。
しかし、人の死は花のように短く嵐がふけば一瞬で散ってしまう。
だからこそ、いまこの目の前にあるお酒を楽しもう。すぐに別れはきてしまうけど、いまはここでつきあわせて楽しんでいるんだから、楽しもうじゃないか。
いま、この瞬間を生きることに無駄なんてない。つねに楽しまなきゃ意味がない。

人生の別れはときとして突然訪れます。
そのときに、悔いのないように生きていたい。
そして、周りの人にも、自分がいてよかったと思われる生き方をしないといけない。

花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ

この言葉を改めて思い出したと同時に、まわりから受けた思いをきちんとカタチにしていかなくてはいけないと強く思った。


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