2013/05/18

「分かり合えない」ということだけが分かっている世界

先日、友人と飲んでいた時にたまたまでた話で、
「"World”(世界)と"Word”(言葉)ってほぼ一緒だよね。ということは、Worldについてる"l”ってなんだろう?」
という話をしていました。

その宴席で出た一応の仮説的答えは「"l”は"Language”の"l”じゃない?」
ってことでいったん落ち着きました。(もちろん、実際は違うのかもしれませんが…はは)
ただ、その話の一説が、意外と頭の片隅にずっと残っているんです。

Worldというのは、世界という意味として使われます。それは、"Grobal”とはまた違います。Grobalは、「地球的」「地球全体の」という意味として使われ、球状である地球という惑星に関することとして使われることがあります。

では、Worldはなんだろうか。そこに、さきほどのWordがでてきます。

私たちは、「日本語」という言語を話しています。ときに「英語」を話したり、「中国語」を話したりしていると同時に、それまでは「日本語を話す人=日本人」という認識でもありました。

旧約聖書の創世記第11章には、こんなエピソードがあります。
「ノアの洪水の後、人々はみな同じ言葉を話していました。シンアルの野に集まった人々は、石の代わりにレンガをつくり、漆喰の代わりにアスファルトを手に入れました。このレンガとアスファルトを使い、天まで届く塔を作って名誉を欲しがり、神が始めに大地で生活せよ、といった言葉を忘れ、大地から離れようと考えていました。

神は、この塔を見て、言語が同じであることが原因であると考え、人々に違う言葉を話させるようにし、塔が完成させないようにしました。これによって、人々は混乱し、世界各地へ散り散りとなり、それぞれの言語の人たちだけで生活するようになりました。」

有名なバベルの塔の一節です。

つまり、それまで言語が1つだった時代は、言語自体がそもそも1つしかないため名称として存在する必要性がなかったのですが、散り散りとなって言語がバラバラになった瞬間に、それまで自分たちが当たり前に使っていたコミュニケーション手段が断絶され、自分が話をしている言葉と、相手が話をしている言葉に違いがでてきたまさにその時に、口から発せられる単語(Word)の違いや、文章として表現されたものの表記が違うという「Language」というものの存在を人は意識するようになりました。

言語が違うだけで人はコミュニケーションができなくなくなり、また個々に微妙に違った生活習慣が形成されていきます。寒いところ暑いところ、標高が高いところ低いところ、それぞれが置かれた状況とそこで使われる言語と生活習慣の中で見出した道具に名前をつけることで生まれる単語が無限大に広がっていきます。

そうした、言語とそこで使われている単語が幾重にも重なり、それぞれに違った集団を形成した時に始めて、自分たちと違った言葉、違った文化を持つ人同士が出会い、それぞれの違いを認識してきてた時に、「世界」というものを見出すことができてきます。

同じ言語、同じ生活習慣の集団同士しか出会わなければ、その人にとってはそれも1つの世界です。しかし、地球という大きな規模で考えた時には、自分と違った生活習慣の人と出会うことなります。バベルの塔の一節は、地球上には散り散りとなった言葉を話す人たちが誕生し、それぞれが100%意思疎通ができないような状況によって、共同作業をおこなえないように人々を分断させました。

つまり、分かり合えないことを全体とした人と人とのコミュニケーションを形成している状態が「世界」であり、そのそれぞれに育んだ多様な文化や豊かな言語によって、世界は成り立っているのです。

World(世界)という言葉の語源は、古期英語の"人の時代”という意味を語源にしているとされているそうです。そして、Word(言葉)は、"言われたこと”という意味の語源でもあったそうです。つまり、もともと言葉が1つだった時代には言語も単語も認識する必要性がなく、あらゆる人が意思疎通が可能で、相互にやりとりができた時代から、言語という絶対的な壁をもとに断絶された時に始めて、相手が何を言っているのかを理解しようと考え、そして相手に分かってもらおうと考えて言葉を話すようになった時に、言語という存在、そしてそこで話される言葉という存在、そしてそれらを含めて、人が生きているそのものを世界と呼ぶようになったんじゃないか、という話でした。


なんでこんな考えがたまたま浮かんだろうかと思った時に、ここ最近文章や話し方などについて考える機会も多く、また、執筆や編集の仕事、UXについて、広告やPR、マーケティング、企画やディレション、スタートアップのサービスといったことを考えた時に、今の時代のこうした情報が溢れかえっている状況の中で、さらに誰しもが何かしらのツールを使って発信ができる時代となった時に、いかに相手に分かってもらおう、相手に伝えようと思って文章も含めて様々なものを作ろうとしているかが大事だ、と特にここ最近言われる機会が多いこともあり、そういったことをふと考えてしまいました。

人と人とは、基本的に分かり合うことはできない。しかし、「分かり合おう」とする気持ちはあるはずです。そして、それは言語が違う人たちだけではなく、言語が同じ人同士であっても同じことです。言葉が生まれたことで、人はそれぞれの言語に応じた思考回路をもって生活し始めます。そして、同じ言語であっても一人として同じ生活環境や文化を持つ人はおらず、人と人との間における多様な価値観や意識が生まれてきます。

そうした人との価値観の違い、多様な意識を持つ人が世界に沢山いることを考えた時に、自分が考えていること、自分が話をしていること、自分が文章として書いているものが、どれだけ相手に伝わっているのでしょうか。そして、どれだけ私たちは相手に伝えようと考えているでしょうか。

ものも情報も溢れかえってる時代。単純にものを欲しがる消費的な意識では私たちはなくなってきました。そして、今の時代はコミュニケーションの時代とも言われています。その中で、人とのつながりやコミュニティが大事になってくると言われています。しかし、そのコミュニケーションの時代において何が必要なのでしょうか。それは、コミュニケーションしたい相手に対し、どれだけ真剣に考え、どれだけ言葉を選び、どれだけ相手と自分とが分かり合えようと努力するか、ということが大事になってきます。

どんなサービス、どんな文章、どんなデザインの向こう側にも、自分以外の誰かがいます。自分が作った「何か」を見たり聞いたり触ったりしたことで、その受け手に何かしたらの影響を与えます。それが果たしてどんなものなのか。受け取った人がどう考えるか、どういった気持ちになるかを、私たちは考えているだろうか。

一方的な情報、一方的な価値観、相手に自分の意志や思いが伝わらない言葉を発しても、意味はありません。自分自身が相手に伝えようと思っていない限り、相手から発せられる「伝えたい」という思いも読み取れません。言動の1つ1つは、その言動の表面だけではなく、その言動の裏に隠されたものがあり、その意志を読み取ることに意味があります。

すべてを言語の単語として表現できるとは限りません。その単語にのらない意志をどれだけ受け手は自然とすくい取ることができるか。また、発する側が、どれだけ伝えたいという思いや意志をもって行動するかです。

言語というもので分断されてしまっても、現代はインターネットという新しいネットワークツールが誕生し、また、翻訳という技術も発達してきました。そうなった時に、言語の壁というが次第になくなってくる時代が訪れるかもしれません。その時に、言語の問題が解消されても人はかつてのように分かち合うことができるのだろうか。

一度分かれた人がやがて元に戻っても、一度分かれたことで生まれた「何が」がそこにはあります。それは、自分と相手は分かり合えないという事実です。だからこそ、どんなに技術が発達し、どんなに世界のあらゆる人たちとコミュニケーションができるような環境になっても、だからといってそこですぐにコミュニケーションが成立するかと言えばそうではないのです。

人と人とは分かり合うことはできない。しかし、「分かり合おうとする意志」を持つことはできます。

改めて、今という時代に自分が伝えたいものはなにか、そして、それを伝えようと考え行動しているかどうか。世界のあらゆる人とつながる時代において、人はどれだけ相手のことを考えるだけの意識を持てるか。もう、僕らはバベルの塔以前の時代に戻ることはできないからこそ、分かり合おうとするために前を向いて進むという唯一の共同手段だけが、世界の人たちとつながれるものだと思うのです。







2013/05/04

いい作品が「売れる」には何が必要か。出版業界を描いた『重判出来!』から”仕事”について考える

      

「重判出来」、これなんて読むか分かりますか?正解は「ジュウハンシュッタイ」。売れ行きがよくて在庫が少なくなった本の重版(増刷)分が刷り上がって、店頭に並ぶことを意味します。作家や編集者など、出版関係者にとっては何よりうれしい単語の1つですね。

そもそも、重版されるということは、その本を多くの人が手にとって読んでくれて本が売れていくことであり、作家さんにとってみれば、自分の作品が世の中に認められた1つのフィードバックであり、作家と二人三脚で書籍を作った編集部からしたら自分が関わったものが売れて嬉しい。出版社としても、人気の作品を輩出させてことで会社全体が売れ行きがあがるということ。しかし、良い本、面白い本であれば必ず売れるというわけではありません。作家の作品性もそうだし、その作家の面白さを引き出し、どう作品を作っていくかを磨き上げる編集がいて、そしてその本をしっかりと書店に営業し、最終的に売ってくれる書店員さんがいます。

書籍を売る、書籍が売れるためには、そこには多くの人たちが作品に関わっているのです。

そんな、書籍販売の様子を描いたもののマンガが、冒頭にあげた嬉しい単語を漫画タイトルに冠した『重版出来!』なんです。

主人公は、女子柔道で五輪を目指す夢をけがで絶たれた黒沢心。世界共通語である「マンガ」に関わる仕事で「地球上のみんなをワクワクさせたい」と、青年マンガ誌の新米編集者として働く様子を描いた作品だ。

主人公は、新米編集者として、出版業界の様々な様子を見聞きしながら常に懸命な姿で奔走する様子を描いている。そこにあるのは「本が好き」といった一心な気持ちに他ならない。いい作品をもっと多くの人に読んでもらいたい。その純粋な気持ちは、次第にまわりを巻き込んでいく。ジャンプで連載されていた『バクマン』は、どちらかと言うとマンガを作る作家にフォーカスを当てていたが、『重版出来』は、作家や編集者だけでなく、「売る側」の存在である営業や書店さんにもフォーカスを当てています。

もちろんこれはフィクションだが、作品を作るにあたり多くの出版関係者にインタビューをして書かれており、かなりリアリティあるものになっている。そして、ここで描かれているものや、読者に伝えたいものは色々と読み取れものがあると思います。

「作る」だけではものは売れません。作ったものを「売る人」「広める人」がいてこそ、良い作品への次第になっていく。どんなベストセラーも、始めはただの一端の作家にすぎません。けれども、その荒削りな作家の良さを引き出し、その良さがいい形になるために一緒になって考えてくれる編集者がいる。編集者は、間近でいい作品だと分かっているからこそ、その自身の仕事に対する情熱を営業部と懸命になって交渉する。部数決定会議の様子が描かれる回もあるが、編集部と営業部との交渉というのも、企業の中でやり取りする中でおこる1つだろう。

その編集の思いを汲み取り、営業がいい作品であると自信を持って押していく。その営業の動きに呼応して、書店員も力を入れて作品をプッシュする。互いに互いの役割を信頼しているからこそできるチームプレイです。もちろん信頼しているからこそ、時に衝突したりもあるわけだが、それは互いを深く知るために必要なことであり、衝突もなく互いに理解しあえるということなんてない。互いに人間であり、人間同士であるからこそ、完全に互いのことが分かり合えなくても、その努力をし続けることが大事になってきます。

仕事に対してもそうで、仕事を懸命にやっているか、仕事然としてふるまうかで日頃見ている世界や見ている風景の解像度が変わってくる。どれだけその作品を考え、その作品が売れるかを試行錯誤する。そんな互いの地道な努力の積み重ねによって仕事は成り立つし、よい結果が生まれてくるのです。もちろん、時に結果が振るわないこともあるかもしれないが、その時に自身の実力や仕事のレベルの低さに涙し、次に活かそうとまた頑張る。そうした、「仕事」に対する考えを知れる一冊かもしれません。

また、こうした仕事の仕方は出版だけに留まりません。ウェブまわり、スタートアップまわりもそうだし、建築設計やNPO、社会起業やコミュニティデザインと呼ばれるような地域デザインやコミュニティづくりのような仕事にも通じるものが多くあります。

どれだけそのサービスのことを考えているか。どれだけ、そのサービスが良いものかを相手に伝えるために懸命になること。そして、いいと思ったものに対して、編集者やデザイナーはそれに心を打たれてサービスや商品、プロジェクトなどをもっと良いものにするためにブラッシュアップして、そこからデザインを考えたりPRを考えたり、コピーライティングを考えたり。それらを含めた全体として、届けたい相手に対してサービス全体の設計を考えるUXを踏まえるかなのです。

こうした思考は、どんな仕事に対しても言えるものではないでしょうか。

まずは、いいものをつくること。そして、そのいいものを人にしっかりと伝えること。そして、それを買ってもらえるための努力をすること。こうした一連の流れを踏まえながら、それぞれの役割に応じた仕事の人たちが、それぞれのプロフェッショナルな人たちが存在します。

『重版出来!』の中でも、いくつか、印象的なセリフがでてきます。

売れる漫画は愛されています。

どんな作品も、やはりそこに作った人の愛があり、その愛が編集者や営業に伝搬し、関係者が愛しているから良い作品になっていく。そしてその愛がきちんと読者に伝わるからこそ、愛される作品になる。漫画に限らず、ウェブサービスでもなんでもそうだが、様々な関わっている人の愛が行き届く様がユーザーに伝わるからこそであり、それこそ、UXとも呼べるものなのではないだろうか。

今回、始めて知りました。自分の手にする単行本は、たくさんの人たちの手を渡って届いているんだって。「作品」であり、「商品」であり、「想い」なんだって。

まさに、作品は一人では作ることはできず、そこに関わる様々な人の愛が手に手をとって伝わっていく。作品の単純な中身やクオリティもそうだが、その作品のクオリティを上げるためには編集者の愛が必要であり、その編集者の愛が営業を突き動かし、書店員を動かす。そうした想いの伝搬こそが、仕事の醍醐味ではないだろうか。

この第1巻の、3月末にでて早々に「重版出来」されたということで、作家のみならず編集者の想いが形になった結果ですね。Twitterなどでも、色々とコメントもされているようで、まとめもあったりします。作家の力、編集者の想い、そして営業や書店員の活躍。ものづくりの現場を見るたびに、こうした様々な人たちの仕事っぷりと、その情熱に自分も色々なところで感激するしまだまだ自分の未熟さを感じるばかりです。

僕自身も、作った人の想いや考え、哲学を知り、いいものだなと思えば思うほど、どうやったらそれがもっと良い物になるかを一緒になって考えていきたいと常に思っています。その愛があるからこそ、時に厳しいことも言うし、時に一緒になって悩んだりもします。仕事として、自分が関わったりするものであれば、絶対にいいものにするだけの努力や意識を常にもつことは考えています。それが「仕事」であり、それが「愛」だと思っているから。それは大変だけどいつも楽しく仕事をしています。

ぜひ、学生の人や、新入社員の人とかに呼んでほしいものですね。第2巻も9月に発売されるとか。2巻も期待です。ウェブサイトも、特設に作って盛り上がっていますね。

ビックコミックスピリッツ「重版出来!」特設サイト | 試し読み



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