2015/04/17

藤田一照さんのメールマガジン『仏道探究ラボ』のコラム「仏教とわたし」に寄稿しました

葉山で座禅の研究を行っている藤田一照さん。藤田さんは、著書『アップデートする仏教』などを書かれており、仏教のあり方を現代にあったあり方として見つめなおそうとしている方です。藤田さんが発行しているメールマガジン『仏道探究ラボ』があります。毎月二回発行されているメルマガでは、藤田さんが日々感じていることや発見などを書いたり、読者の質問に優しく答えたりしています。

メールマガジンのなかに、「仏教とわたし」という、さまざまな分野で活動している人たちが寄稿するコーナーがあります。そのコーナーに先日寄稿させていただきました。といっても、なにか大層なことを言っているわけではなく、自分が普段感じていることなどを、仏教の考えなどとも照らしあわせたエッセイのようなものかな、とおもいます。

他にも、藤田さんのメルマガは日々の気づきや仏教の考えを知る機会になるとおもいますので、興味が有る方は覗いてみてください。ゆっくり、深呼吸でもしながら読むのにぴったりなものではないでしょうか。


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■ 5.仏教とわたし
「仏教とわたし」と題して、様々な分野で活動中のゲストをお迎えし仏教との
関係性や、仏教に対する考え、思い等をお伺いしたいと思います。

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ゲスト:江口晋太朗さん
編集者/ジャーナリスト
NPO法人スタンバイ理事

仏教やお経の思い出といえば、お葬式のときにお坊さんが話すよく分からない
言葉、くらいだった。はじまりは母方の祖父が亡くなったときで、自分は2歳
かそこらくらいだったので祖父との思い出なんてものはなく、物心ついたとき
から仏壇に手をあわせて飾ってある遺影の顔を見るくらいだった。

祖父との思い出はなかったが、写真やらなんやらで祖父という人がいたという
痕跡だけはそこにあって、幼少期の自分にしてみればなにか不思議な気持ちに
なっていた。年が経ち、自分が中学生を卒業するくらいまで、父方の祖父や祖
母は元気に過ごしていて、自分自身も次第に身体も大きくなり、物事もわかっ
てきて、なんでも世の中が新しいものに見えてきたし、知識や経験も増えてき
た感覚を覚えてきて、世の中がずっとそういった状態が続くのかな、と思って
いた。なのだが、その頃から父方の祖父の体調が悪くなり、入退院を繰り返し
、じょじょに弱っていく様子を見ていくと、人はいつか「死」を迎えるもので
あるということの実感をすごく抱くようになってきた。その祖父も、僕が高2
のときに亡くなり、そこではじめて親しい人との別離を経験した。

人は必ず死を迎えるという免れることのできない事実を現実として体感してく
なかで、はじめて、自分がここに「居る」ということへの問いを立てはじめた。
事実、数年前までそこに「居た」人が、いまではそこに「居ない」。その現実
を受けとけ、しかもそれがさも当たり前のものだと思う自分がいる。それはつ
まり、自分自身がいまここに居ることすら、自分が死を迎えたときにどうなる
のか、自分が生きているとはなんなのか、自分の存在意義や存在証明がどこに
あるのか、といったある種の禅問答のような考えに陥ってしまった時期もあっ
た。

そんなことを救ったのは、ちょっとした他者から自分への感謝の言葉がきっか
けだった。自分が居たことによって誰かの何かの役に立ってもらったと思って
もらったり、誰かが少しでも幸せになれること、多く人が笑顔でいれる世の中
にするために自分ができることを行うことが自分の居場所なんだ、ということ
を気付かせてくれた。そんな思いを胸に、これまでさまざまな仕事をしてきた。

いまは、最先端の技術の研究や、技術と社会のあり方についての調査などを行
いながら、私たちの身近な生活をどのように豊かにできるものなのか、そのた
めの環境を作り上げ、社会の仕組みを次の時代に合ったものにするためのプロ
ジェクトを立ち上げたりしながら、日々を過ごしている。

技術の進化は日進月歩だ。しかし、ややもすると何か新しい技術やアイデアが
生まれると「◯◯が次の時代を作る!」や、「◯◯で、社会が変わる!」みた
いな言説が流布し、多くの人たちがそれに右往左往することがある。実はそれ
は、社会について考えているようでいて、実はそこにいる人間を考えることな
く、技術が社会を変えるものだと勘違いしがちになる。しかし、技術で社会が
良くなるわけではないはずだ。ときに技術は人に万能感を与えがちで、気がつ
いたら人が技術に振り回される、ということになりがちだ。

けれども、機械や技術は自分からは何も変わらないし、ただ機能としてそこに
あり続け、変化せずにいるだけだ。そこに意思を吹き込むのは、人間しかでき
ないものだ。だからこそ、人がどうあるか、人がどう振る舞うか、人がどのよ
うに考え、行動するのかを知ることこそが、社会を知る上で重要なものだと気
がついた。

現代は、さまざまな変化が激しい時代のなかにおいて、人は世の中に対して不
安になる。不安になると、何か確固としたものや絶対的な解を求めがちだが、
そんなものは世の中にはない。自分がいかにして世の中を生きようとするかが
大切になってくる。だからこそ、技術やテクノロジーを知ろうとすると同時に
、人のあり方を知ろうとすることへとつながってくるのかもしれない。

そうした思いで日々を過ごしているなかで、最近になって、仏教に関連した本
を自然と読むようになった。きっかけは正直言えばあまり覚えていないが、親
鸞について書かれたものや、かつての人たちがどのように仏教に接し、どう日
々の生活のなかで大切にしていたか、仏教をもとにどのように日々を過ごして
いたのか、ということに自然と興味がでてくるようになった。

自分が社会においてどうありたいのか。人を信じ、他者との中で生きている気
持ちと、それでも結局人は孤独であるという考え。人と人とが分かり合えない
部分と、分かり合うことができるのでは、という矛盾を抱えながら生きている
。そんな、人生や生き方について悩むたびに、仏教で描かれているさまざまな
ことがらを読みながら、もちろんそこに答えがあるわけでもないが、自分の考
えに納得したり、違った考えをそこから導き出したりさせてもらっている。

正直言えば、浄土なんてものは僕にはわからないし確証もない。けれども、昔
の人たちは自分の行為やその後について、考え、悩み、苦しんでいたなかで仏
教と出会い、そこなかで自分の居場所や自己について見つめなおそうとしてい
た。その姿や弱さを内包していることこそが、人間の姿であり、人はそこまで
強いものでもないし、合理的に動くものでもない。自身も同じような存在なん
だ、ということを気づかせてくれる。

やはりどこかで死の先のことがどうなっているのか考えることがあるが、考え
ることと同時に、死にたくない気持ちと、死ぬことをいつでも待っている自分
がいる。その根底には、人は年を重ね、死があるという事実を知った幼少期の
経験から、どこか死ぬことへの覚悟があるのかもしれない。

毎日、南無阿弥陀仏を唱えているわけではないが、ときおり座禅を組んだり、
写経に参加してみたりしている。その理由は、自己と向き合う時間を作ると同
時に、ときに、社会のなかで自分の居場所や自己の存在を見失っているような
気持ちを、抑え、今一度、自己の存在を客観視するような場として考えている
からだ。日々のさまざまな周囲の情報に振り回されればされるほど自分の足元
が不安定になり、自分がどこにいるのかが見えなくなってくる。だからこそ、
自分がここに「居る」ことを実感するためにも、書籍を通じて仏教の考えを読
み解き、自分自身のあり方を見直そうとするきっかけにしている自分がいる。

仏教は堅苦しいものでもなく、もっと自然にそこにあるもので、かつ、自分と
の対話を行うものなのかもしれない、と最近思っている。それは、公園をゆっ
くり散歩しながら、季節の変わる様子を感じ取りながら周囲にある自然を観察
し、小さな変化に気づいたりすることでもある。ついつい、人のつながりやネ
ット上の振る舞いなんかを気にしがちだけど、そういったものから解き放ち、
自分と向き合うことの大切さ、自分の感覚や感情に正直になり、ちょっとした
行為の変化を読み取れるようになることで、色々なしがらみや複雑な思考をリ
セットして自分の姿がより鮮明に見えるようになってくる。世の中のことを知
ること以上に、自分のことを知ること、自身に向けた解像度の高い視点をもつ
ことが、これからの時代を生きる何かヒントになるのかもしれない。

いまを生きるために、過去を振り返り、過去から学びながら未来を生きようと
する。その未来は、「いま」の積み重ねであり、「いま」をどう生きていくか
を懸命に考えること。そのためにも、自分がいまここに「居る」ことを感じさ
せることによって、前へと向くことができる。そのためのヒントを、仏教は教
えたり感じさせたりするものではないだろうか。
江口晋太朗
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