2011年9月11日。
アメリカで起こった同時多発テロが起こって10年目の今年、10周年の追悼式のこの日をニューヨークで迎えるということを、自分自身で少し特別な思いで迎えていた。
この911がある意味で自分と世の中を考えるきっかけの一つだった。
10年が立ち、自分自身で自分のこれまでや世の中についてどう考えてきたのだろうか。
そしてこれからをどう考えていくか。
そのための自分自身としてもけじめや確認のために、どうしてもこの日はニューヨークにいたかったのだ。
本題前にこの10年の間のことも含めたすこしばかり自分自身の話を。
色々なところで話してはいるがきちんと文章にしたことがなかったので、きちんと書いてみる。
2001年9月11日。
ちょうどその日は家でテレビを見ていて報道番組で報道していたのを覚えている。
その時期、自分は高校二年生だったのが、その時期がほとんど自分は学校に行っていなかった。
ずっと喧嘩やら夜中を友人たちと徘徊していたりとか、まああまりいい学生ではなかった。
当たり前だが、勉強もほとんどせず、学校も出席ぎりぎり、遅刻は余裕の3ケタだった気がする。
テストもほとんどが赤点ばっかで、留年しそうになったがなんとか留年せずにすんだ程度だった。
生きる意味もとくにわからず、勉強する意味もわからず遊んでばっかだったが、それにも次第に楽しみも見いだせていなかった。
こんな自分でもなにか世の中の役にたてるんだろうか、何か誰かに必要とされることがあるのだろうか。
そう思い、当時その考えから警察官や消防官になりたいなと、そんな考えももっていたのがちょうど2001年の9月くらいだった。
それでテレビでの報道があり、世の中がどうなるかわからない方向に進む、そんな気がしていた。
そういった状況の中、自衛隊という職に自分は結局就いた。
それまであまり自衛隊のことについて深く考えたことはなかった。とくに国防を志していたとかそういう気持ちもとくになかった。
ただ警察や消防と並び、同じようなものなのかな、とそのころはそれくらいの考えしかもってなかったし、どういう仕組かも知らないけど、行けば何かわかるんじゃないか、行けば何か役にたつんじゃないかと考えてた。
その当時、自分の高校は一応の進学校らしく、同級生の99%が国公立や私立の大学に進学するようなところで、同級生でそれこそ東大やら早稲田慶應なんかも行った人たちもいるとか。
そんな中で公務員を目指すということ自体が高校としても珍しく、もともと高校の中でも手に余ってた問題児だったこともあり、先生たちも半ばサポートはしてくれるものの、あとは自分たちでやってほしいという感じだった。
で、2003年に陸上自衛隊の曹候補士という制度で入隊した。
簡単に言うと、現場で働く自衛官への入隊で、教育期間が終了すると、部隊配属され、毎日訓練を行い、有事の際には出動する現場な仕事だった。
入隊した同期にはみんなそれぞれ様々な動機で入隊した人たちがいた。
家族や親族の多くが軍人や自衛隊関係者でその流れで入隊を当たり前にしていた人。
家族を養うために安定した職に就きたいと入隊した人。
他にいくところがなくなんとなくはいった人。
もちろん、PKOや国際協力などの活動に参加したいという人など様々だった。
また、2003年当時、小泉政権自体の真っ只中で、アメリカがイラク戦争に突入していたこともあり、イラクへの何がしかの支援があるのではないか、というのは入隊した同期の中でもやはり話題になっていて、それにぜひ行きたいという同期ももちろんいた。
自分ももし行けるなら国際協力とかPKOなどに行きたいと思っていたが、そこまでまだ自分のなかでしっくりくるものがなく、特に自衛隊にずっといたいという気持ちもその当時はまだついていなかった。
しかし入隊したら自衛官として働かなくてはいけない。
中途半端にやっても意味ないわけだから、だからまずは今眼の前のことを集中してみよう。しっかりやってみて何か見いだせるものがあるのではないか。そう考えていた。
もともと剣道や水泳、柔道をやっていたし、スポーツ全般に対してはそこそこやれる自信はあった。もちろん、それらを活かせる場ということでこういう仕事を選んだようなものだったわけで、体力にはそこそこ自信はあった。
だけど、いざ入隊してみれば自分よりもものすごく体力は知識や経験などが優っている人がわんさかいて、ちょっとまわりを見ればバレーで全国大会にいったものや野球で甲子園にあと一歩だった人など様々だった。
そんな人達と肩を並べ、毎日朝から晩まで、それこそ寝るのも仕事という環境のなか、24時間毎日訓練に励んでいた。
もちろんそのときは目の前の訓練に必死だったし、まわりについていき、もちろん負けたくないという気持ちで人よりもちょっとでも動作を早くしたり、みんなよりもちょっとでも体力をつけようと休みの日でもひたすら自分で訓練したりなどのことをしていた。
そして教育期間が終了し配属先の決定が下ったとき、僕は九州にある西部方面普通科連隊という離島防衛対処部隊というその当時は日本で一つしかない特殊部隊のようなところに配属された。
アジアの隣国が九州のまわりの離島を不法に占拠した際に対処撃破するためのレンジャーズ部隊であり、上官から教育部隊の中でもある程度上位の評価をいただいた結果だったのだろう。それらに対して、自分を評価してもらったことはすごく嬉しかったし、その評価に対して報いなきゃ、という気持ちでいぱいだった。教官から直々にそこで活躍してほしいと配属決定のための面談があったときに即答した記憶がある。
部隊に配属され、部隊での教育期間が完了し、正式に部隊に配属されたとき、世の中はイラク特措法が決定し、自衛隊の派遣がじょじょに現実のものとなってきた。
配属された当時は、東ティモールへの国際協力部隊が自分のところの部隊から派遣もされており、東ティモールにいった先輩隊員の姿がとてもかっこいい印象だった。
世の中で必要とされていることの当事者になっていること、そしてその仕事に従事していることに対して、みんな誇らしげにしていたし、まわりもそれに対して賛辞を送っていた。
一般的に自衛隊というもの自体が、有事を想定はしているもののやはりそういった機会が訪れることは皆無であると言えるかもしれない。
でも部隊では毎日いかなる状況が起きても対処できるようあらゆる状況を仮定し、それらに対して瞬時に体が動けるよう毎日訓練を行っている。
そのために、上官からの指示に対して瞬時にその意図や意味を汲み取り、自分が課された役割やポジションに対して適切な行動を取る必要がある。そして命令に対して80%でも120%でもだめで、要求された命令に対して100%行動することが求める役割なのだ。
そして、その仕事がいつかどこがで役にたつ時がくるときがあるかもしれない。
別に戦争とかでなくても、こういった国際協力や災害派遣など、人の命を救う仕事というものは、こういった世の中であるから存在することは仕方のないことなのかもしれない。
そういった重要な仕事に自分の行動によって少しでも人の命が救える時がでてくるのではないか。
そんなきもちが、自衛隊で働いて一年以上たち、そう思えるようになってきたし、そう思うことが仕事のモチベーションになっていた。
世の中が911から続くイラク戦争など各地の紛争が勃発してくる中で、そういった悲しみの連鎖の中において復興や復旧ということに意味があるのだとすると、そうしたことに従事できればと考えていた。
そして、自分たちの部隊にもイラクの派遣の命令が下達された。
もちろんそんな機会なんて滅多にこないし、日頃からやってる訓練の成果や自分が活動できる機会がやってきたのだから、ということでもちろん自分は志願した。
だが、まだ二年目ということもあり、結局派遣への選抜からは漏れることになった。
部隊としても活動に対する貢献を重視するということなのか、自分の部隊からはそれこそ部隊の中でも特に優秀な先輩たちがやはり選抜されたいったような気がする。
もちろん、その選抜に対しては文句はないし、自分よりも優秀な人達が活躍することに対して自分ごとのように喜んだ。
そして自分はそのかわりということではないかもしれないが、新しく入る新隊員の教官のチームの部隊に配属された。
3年目で新人の班をもち、しかも一番下っ端ながら教科の担当もさせてもらうことができた。
派遣には行くことは敵わなかったが、後輩を育成するということには多くの期待と意義があると実感し、教官チームの中でもかなり色々と仕事をやらせてもらった。
新人への訓練内容も、それまでの従来を踏襲することなく、配属される部隊と同等の訓練をさせ、部隊に配属されてもすぐに実践力がある新人を育成しようと訓練内容を変更する具申を教官の上司にしたり、おなじ班をもっている同期や先輩がたと色々と議論や教育について話し合ったりした。
自分に対して必要としている人たちがいるのだから、それらに報いるのは当然だと思うし、また自分がかつて数年前まで経験していたことに対して、後輩が自分を越えれるよう自分たちからしても辛い訓練を彼らに課したし、そしてそれらの訓練に対して彼らも精一杯努力して向かってくる姿勢は、跳ね返って自分自身への写し鏡のように彼らにとって重要な先輩であることを自らに課すことで、自分自身を高めたり意識を向上させるような思いだったと思う。
ちょうど教育指導期間が始まるころにはイラクへの派遣が決まっている人たちの訓練も佳境にはいり、また、ニュースでも連日連夜イラクの情勢や自衛隊のことについてのニュース、先遣部隊の人たちの帰還の様子などが新聞やニュースで報道されているころだった。
ちょうどそのころには、自分たちがいる部隊への派遣も正式に発表され、駐屯地への連日の報道陣やニュース関係の方たちの取材も多くきた。
それと合わせて、自分たちの特殊部隊の密着取材も同軸で行われ、世の中的にもアジア圏への緊張や自衛隊についての関心ごとなど、世の中の中軸に自分自身が置かれている立場の現実味がわき、自分の世の中との関連性などを実感するようになった。
そして、実際に隊員への指導教官中には、自分たちの部隊の最初に部隊がイラクへ実際に派遣のために出動してきた。
実際に自分の知ってる身内が出動し、向こうに行ってからは、数少ない通信手段を使って部隊にメールを送り、そして無事に帰ってきてからはイラクでの実際の現場の土産話などで盛り上がると同時に、無事に帰ってきたことに対する安堵な気持ちでいっぱいだった。
だが、そんなときを経たときくらいに、同時に一つの疑問も浮かび上がった。
「なぜ自分たちはイラクへ派遣されるのか」
自分たちは命令が下達され,行けと言われたことに対しては拒否はできない。その行為が社会的に意味のあることはどうかを現場の人間は考える必要性はないからである。
入隊当時や部隊に配属された頃は、国際協力や派遣に行くことが世の中にとって意味のあるもの、役にたつものだと信じていたし、それしか考えることができなかった。なぜなら、それらを否定すれば自分たちの存在意義が揺らいでしまうから。
だが、毎日の報道や、ときに自衛隊の派遣の是非などについての議論、自衛隊の派遣先が非武装地帯かどうか、日本の「ショーザフラッグを示す」ということに対する意味や意義が当時は理解できなかった。
時代の当事者として大なり小なり関わっているにもかかわらず、その事柄自体のことについてや、そもそもの事の発端や本質的なもの自体を理解できなかった。また、それらを理解することを要求されていなかったし、する必要性もなかったからだ。
自衛官というと名前はいいかもしれないが、実際は訓練などで演習場に行けば一週間や二週間以上演習場に缶詰になり、演習場から駐屯地に帰ってきたときには世の中のニュースががらりと変わっていて、ある意味で浦島太郎な感じを経験することはざらにある。
そうなればなるほど、だんだん世の中の関心ごとに対して疎くなり、毎日訓練をして、自分たちからするとそこまで自覚はそこまでしていないが寝ることも仕事だと言われ昔から言われ続け24時間働いている感覚で生活を送り、そしてそれら全体が仕事だと仕事いうことを要求されている。
自分たちはここで生活していることが仕事であり、仕事が生活なのだとだんだん感じるようになった。そして命令が下ったらその命令通りに動く。そしてそういうことが毎日繰り返されていくのだ。
もちろん年齢や階級などが上がればもちろん活躍の幅が増えることもあるし、組織内における責任の重みも増えてくるということでは仕事における重要性はましてくると思うし、職場や環境が変われば考えや自身がやる仕事の量や質も変わってくるのは確かではある。
でも、自分が考えていた「何か世の中や人の役にたつこと」が果たして自分はできているのか、と同時に考えるようになった。
毎日を繰り返し、自分が30歳になったときにこれくらいの階級になって、40くらいになったらこれくらいの部下をもち、50になれば部隊の上層になって定年もそろそろかーと考え始めるというある程度のレールや自分のモデルが見えてくることに対する違和感を少しづつ感じ始めた。
「自分」というものが果たして意味があるのか、自分というものの存在や生きること働くことを今一度考えたかった。
それと同時に、はたして自分がいまいる世の中がどう動いているのか。
自分がいまいる社会がどう成り立っているのか。そしてその中で自分がどう少しでも貢献できるのか、そして貢献できることはなんなのかを考えたかった。
同時に、自分自身が多少なりと関係しているイラクの派遣がそもそもよかったのかどうか、そしてそれらを含めた戦争自体や意味があるのか。それらを考えたかった。もちろん、いま自身でさえもときおり考えるし、それらの結論がでることは難しいかもしれないが、そういったことなどについて少しでも自分自身で考えたかった、という思いだ。
いま考えれば、自衛隊などが出動するということは世の中に取ってみれば有事や非常事態なわけであり、でも自分たちがおもに活動したりするためにはそういうことが起こらなければ活躍ができない。ということは、自分が活躍するためにはそういった事態が起きないと意味がない。
つまりはそれは世の中全体を考えればあまりいい方向でないわけであり、この、自分自身と世の中との間における二律背反的な葛藤という存在なのだと思う。
自衛隊などは、どんなことを言ってもそれらはある程度の戦力や武力がそこで存在しているのであって、それは傍からみれば「武器」でしかない。でも、武器なんて使わないにこしたことはないわけであって、それらをむやみやらに使ってはいけない。それらを使うということは、非常事態のあまりよろしくない状態なんだ、ということを理解しなくてはいけない。
そんなことを考えるようになり、でも様々な事態が起きたり、社会が激しく動いているにも関わらずそれらに対して自分自身がとくに考えやこういう世の中にしたいとか自分がその中で何ができるか、そのためには何が問題でどういった解決策があるのか、といったことなどに対して、自分があまりに社会の動きや世の中のことについて意識や関心がなく、それらに対して考え、そして何か少しでもいいから学びたい、という思いで、その当時は大学に行けば何か学べるのではないかと考え、自衛官を辞め、大学に行こうと考えそこからはじめて1から勉強して約半年くらいで大学受験をして、そして東京へ行くことになった。
自衛隊を辞めてはいるものの、自分がいままで経験してきたことに対してはすごく感謝をするし、やっていた仕事自体はとても自分自身好きだったし、一緒に仕事できた仲間や同僚はに対してこんな自分を育ててくれたというものに対して感謝しきれないものがすごくある。
いまの自分のおそらく半分以上はこの約3年半ほど経験させていただいた環境に作られてると言っても過言ではないし、いまでの自衛隊に在籍されてる人たちには尊敬の念しか思い当たらない。
3月におきた地震では多くの自衛官が活躍し、日々昼夜を問わず救助にあたっている姿は感謝という言葉だけでは言い尽くせないくらいだ。
そういった意味で、やめている身ではあるものの、自衛隊というものを語ったり普段ではなかなか理解や説明がしにくいものであるものの、多少はみなさんにご説明できる部分などに対しては、素直に応えたいと思う。
そんな自衛隊を辞め、そこから1から勉強をし始めたのだが、よくよく考えれば英語なんて中学校レベルがなんとかがわかる程度、数学とかも二次関数がやっと理解できるくらいなレベルから約半年程度の勉強ながらまわりの受験生と変わらない程度の勉強量にまで少しは追いついた気はする。それも今思えばすごく楽しかったし、勉強する意味というのがそこで少しわかった気がする。
教科書を読むことの楽しさや、社会などでは世の中の出来事や歴史を学ぶことの重要性や面白さを少しをそこで初めて理解できた気がする。
そして東京にでてきたのが23歳になる2007年。
高校の友人らとはほとんど疎遠になってるし東京にまったく知り合いもいないし特にツテなどがあるわけでもない。
まさに独り身というか裸一貫な感じで東京にでてきた。
同い年くらいの人はそのほとんどが大学をちょうど卒業することだし、様々な点においてまわりからすれば一歩も二歩のスタートが遅いし、知識や経験や思考や考えなど、他の誰よりも足りてない自分がどうこれからやっていけるか、というただそれだけを考えてた。
そして、ちょうどその頃くらいから911の10年目、2011年に自分がなにをしているかわからないが、時代がどう移り変わっているか、そして、そのときに自分自身が世の中や物事についてどう考えているか、それらを確認するために、そもそもの発端やある意味で時代の節目、そして自分自身の人生でもなにか変な因果がある911のあの現場に、2011年9月のその日にいたい、という思いがあった。
それは、自分にとっても確認でもあり、ある意味でのけじめとして、自分自身と向きあうために必要なことなのでは、と自分でそう考えた。
別に自分は911で誰か近い人が亡くなったわけでもないし、とくにアメリカに対して思い入れがあったわけでもない。
ただ、自分自身と社会とを結びつけ、そして世の中全体としても節目の一つであるだろう911のあの現場を、10年経ってどう時代や社会が変わっているかを、その現場を自分の目で確認しに行きたかった。ただそれだけなのです。
東京に来て、色々な活動をしてきた気がする。
そもそも自分は物事や身の回りのあわゆることについて知らないことだらけだし、特に誰かと比べて優れているものもない。どちらかと言うと落ちこぼれなほうだと思う。
だから、いろんなことをまずは自分の五感を通じて体験してみないと意味がないし、そうしないと学習しないと思った。
まずは色々な書籍を読み漁った。それまで、活字というもの自体はマンガくらいでしか読んでいなかった自分が、古典やら専門書からあらゆるものをまずは読もうと思った。とくに社会の教科書に載ってるような著名なものはまずはそこからできるだけ手にとって読もうと思ったり、人が読んだ本や興味をもったものに対しては、自分もそれを読んで感想や意見をまわりの友人などと意見交換をした。
そして、実際に政治的な現場を生で見てみたいと思い、国会議員のインターンをその後経験した。自分が伺った先は民主党の議員さんだったが、特に自民党や民主党どちらでもよくて、実際に自分の目でその現場を少しでも体験したいと思ったからだ。
折しも時代は福田政権から麻生政権時代に変わるところで、世間的に政権交代やらの流れがきているときだった。
自民党の代表選の所信表明のときには自民党党本部に行ってその所信表明演説を聞き、その日に登壇した5人の所信表明演説を全部文字おこししたりしたこともあった。特に誰かにやれと言われたわけではないのだが、文字に起こして友人らに起こした文章をまわして一緒に議論したりしたこともあった。
それから行政関係やNPO関係のイベントや勉強会に参加したりしているときに、海の向こう側ではオバマ大統領の当選が決まり、その選挙においてインターネットやSNS,ソーシャルメディアが活躍してことをうけ、インターネットなどによって社会が変わることの片鱗を感じたことで、ウェブな世界に少しづつ学び始めた。
それまで自分のパソコンをもったこともなかったし、なんかmixiが流行ってるらしい、という程度でとくにやってなかったし、携帯も電話とメールができれば十分な感じで、Yahoo!とGoogleの違いもいまいちわかっていなかったような、ましてやwebデザインやらBlogがどうとかすらさっぱりなインターネットのイの字もよく理解していないようなそんな程度だったのがいまからだいたい二年くらい前の話であるから今から振り返るとまあ多少は変わったかなと思う。
そのころくらいで、実際に盛り上がっているTwitterやらFacebookなんかをはじめ、そのころはまだまだTwitterのユーザーも全然少なかった時期だったりはしたのですが、イベントや勉強会などをそれこそ一人で見よう見まねで要約して実況中継したり、Twitterのハッシュタグを使ってゴミ拾いを促進する「Twitter gomihiroi」(ハッシュタグ#gomihiroiをつけてゴミを拾った写真を取ってそれをマップでマッピングする企画)などを仲間うちではじめて多くの人たちが賛同してくれたりしたのは嬉しかった。
まだそんなにTwitterが盛り上がる前だったのでいまだと色々な企画やらマッシュアップされたサービスがあると思うけど、当時からしたらまだ何もノウハウなんかがないときに自分たちだけでありモノの中でやっていた気がする。
それと同時に、日本全国でソーシャル・アントレプレナーという言葉やその概念を知り、いまある社会問題に対してビジネス的発想や新しい試みによってその解決をしていこうという動きを知り、そういった活動を広めるための全国フォーラムを運営したりしていた。
そのあとには、慶應大学の友人が立ち上げた電気自動車の認知を図るために地方の都市をまわりその土地の良さを再発見していくという旅企画に参加し、その旅の様子をハッシュタグをつけて随時発信するようなことをやってた。
いまでこそ、旅やらイベントやらをハッシュタグや特定のサービスやサイトで発信しつつアーカイブしていくということはある程度認知されはじめていたけど、そのときはまだ早すぎたのか、でも逆にそういうことをしている人が少なかったのか、色々な人に応援やら話を聞きたい、というようなお声をかけていただいたのは嬉しかったし、そういう面白いことをやっている若い人がいる、ということでイベントなんかに呼んでいただけるようになったのはすごく感謝しています。
84年の人たちのWebマガジン「84ism」を作ったのも、25歳になったときに、まわりの同い年はほとんど社会人になっている中で、みんなどういうことをやっているのか、それぞれどういった思いや考えをもっているのかを知りたかったというのが最初のきっかけ。
それから、オトナになってから同い年と知り合うことで、学生時代などとは違い、社会やらこれからの自分自身を見つめ直し、そしてそのコミュニティから生まれる人間関係などによって新しい気づきや他業種他ジャンルに人たちとつながることができるというネットワーク、そして、色々な考えや思想をもったこの”ハチヨン”という人たち全体を中心に少しでも盛り上がっていけたら、ということで色々な人に声をかけてスタートすることになって実現した。別に誰のものでもないものだと思っているし、逆に84ismを遊び場ようなカタチで色々な人が関わりあえるような場所に多少はなっていってるのが嬉しいなと思います。
それ以外にも、色々なことをやってきたのだが、そのほとんどは当たり前だがまわりにいる人達に支えられてやってこれてる。
けっして自分自身の力でここまでやってこれたとも思っていないし、周りを見ればたくさんのスペシャリストな人たちがいる。
自分はそういった人たちが活きるような場所や環境をつくっていけたらと思っている。
自分自身が人よりも長けたものなんてないと思っているし、できないことなんて山のようにある。
いつも自分ができるかどうか不安なときもあるのを、まわりに公言して自分自身を奮い立たせるようなことばかりだ。
ものすごく頭がいいわけでもデザインができるわけでもそのセンスがあるわけでもなく、歌がうまいわけでも演奏ができるわけでもないし文章がうまくかけるわけでもぶっとんだ発想や考えができるわけでも、ましてやデジタルネイティブだとかそういうものでもないし、そういった素晴らしい人達が周りにいて、その人達の様子なんかを常に観察し学習して、少しでも自分のものにできればと思っている。
逆に言えば、まわりのいいところにいつも羨ましいなと思いコンプレックスをいただきつつも、その気持ちをベースにいつも自分の行為やモノゴトへの理解を少しでも人よりがんばらなきゃ、という自分自身を奮い立たせるきっかけになっていると思う。
そんな自分でも少しは必要としている人たちがいることはとても嬉しいことだし、そういった周りの期待などに対してしっかりと添えれるように頑張っていけたらと思っているし、それが自分自身にとって意味のあることだと思っている。
自分が別に企業だとか個人とかには特にこだわっていなくて、組織がいいとか個人がいいとかは別に目的のための手段のカタチであって、そういうことに特にこだわりはない。
あるのは、自分が必要とされていること、そしてそれに対して自分がどこまで貢献できて自分の存在価値があるのか、ということだけだと思う。
あとは、自分自身が社会やらモノゴトに対してどうしていきたいか、その自分の軸をベースに行動すればいいだけであって、やっていることや自分が属している組織やコミュニティにものすごく固執することはないと思っている。
あるのはそこが自分にとって意味のあるものかどうか。それだけだと思う。
そんなこともあってそして2011年を迎え、9月11日の現場のためにアメリカに。
2001年から数えるとちょうど10年。
自分が2011年の9月の現場に足を踏み入れたいと考えて4,5年たったんだなと実感した。
当初計画していたことと多少変更はしたものの、6月から9月いっぱいまで、色々な方にお世話になりながら、色々とアメリカをうろうろと経験できたのはよかったと思います。
それらはまた別のところでまとめたいと思います。
この数年、自分は少しは何か変わったのだろうか。少しは成長したのだろうか。
自分ができることはなにだろうか。
世の中はよくなったのだろうか。そしてどう進んでいくのか。そして自分がその社会に対してなにができるだろうか、そしてこれからどう貢献していけるのだろうか。などと色々と考えたものです。
今年はまた10年という節目、そしてテロ自体の首謀者であるとされる人物が亡くなって一応の収束を迎え、そして10年目にまたテロが起きるのではないか、などとという厳重な体制ではあったが、特に滞りなく式典は終了した。
実際に式典が始まり、そういったこれまでを考えていたのと同時に、この10年でアメリカ全体も、かつての非日常な出来事をすっかり受け入れている様子だった。
式典自体は、大統領などの演説が終わり、追悼者の名前をひとりひとり呼び、関係者のみが9月12日にオープンする911memorialの中において、献花やお祈りをして式典を去っていく。
個人的に印象的だったのが、建設予定のWTC1タワーすぐ近くに住んでる親子が、式典の途中だけど休日ということですぐ眼の前の公園でキャッチボールをしているさまだった。
おそらく911以降に生まれたであろう子どもだと思うし、彼にしてみればテロのときの記憶なんかないわけで、それでいてアメリカのこれまでの状態を知らないわけで、彼にしれみればいまの様子は普通の日常なんだろう。
かつては”非日常”な体験であったテロや各地の戦争も、それらを非日常のままにしてしまっていては、自分がいま住んでいる世界、そしていてこれからもずっと続く日常をうまく生きることができない。
大事なのは、その”非日常”を経たこと、そこで経験した、体験した、感じたことを、いかに日常の中に緩やかにシフトしていくかが大事なのだと感じた。
その”非日常”がずっと続くわけではないけど、そこで経験したものは紛れもなく事実であるわけで、そこで学んだこと、感じたことを日常に活かすことが重要なのだと。
”非日常”を”非日常”として特別なものとして置いておくのではなく、自分の身の回りや生活にそれらを溶けこませ、そして日々の生活をシフトしていく。
それによって今後の続く世界を生きていく必要がある。そんなことがいまの求められているのだろう。
過去のことを過去のことのままにして何も学習していないのではまったく意味はない。
歴史は人の失敗や行為の連続の中で生きているわけであって、過去にあったことを学び、そしてそこでくだされたジャッジが果たしてよかったのかどうかを思考し学習することがいま必要なことあると同時に、時代の連続性のなかで、いま自分たちがたっている現在すらも、未来からしらた過去であるのだから、未来からみて、将来のいまの子供たちがいまの自分たちのことをどう考えるか、自分たちがいまやっていることが将来にとって良いのかどうかを、いまという視点でなくて、未来という視座にたってモノゴトを考えるべきなのではないか、ということを考える機会だった。
式典に参加していた人も、もちろんまわりは厳重な体制がしかれているとは言っても、献花や式典が終わればいつもの日常が待っている。
亡くなった人はもう帰ってこないのはわかっているし、それらを悲しむときはあっても、それらに縛られても意味はない。
そうではなく、いまを生きていく、という様子がほとんどの人にうかがい知れた。
911で亡くなった人がなくなって約10年。
グランドゼロで亡くなった人もしかりだが、あの現場にいて、少しでも救助しようと行動した警察官や消防官に対しては、その墓標の前には涙しかでなかった。
それと同時に、911が発端になって起こったイラク戦争などにおける米軍や中東地域で亡くなった人などのほうが規模は大きく、そちらを考えてみると、この一連の負の連鎖、悲しみの連鎖が起こっている限り、世の中から紛争や戦争、なくなる人や、健康や命の危険にされされている人が多いのは事実。
とくに自分と同じ年くらいのイラク戦争当時20代前半の若者が多く戦場に駆り出され、いまでの戦争の残り傷によって社会復帰できていない人が多数いる。
PTSDや惨劇の恐怖などは、いったいアメリカに何を残したのか。
そして、そもそも戦争に突入しなくてはいけないほどの国際問題自体が問題なのではないか。
戦争によって膨らんだ債務を今後消化していくことを考えると、戦争自体に意味があったのだろうか。
「テロを知らない世代」と呼ばれるまだまだこれからの世代や、「911世代」と呼ばれるようなテロを幼少・青年期に過ごした自分くらいの世代の若者が、アメリカの今後の社会を築きあげていくのだと改めて感じる。
と同時に、戦争や紛争はそれらの世代に対して大きな負担をしいらせ、傷を追わせる。
国として社会として、これからの世代に押し付けるようなことはあってはならない。
人が亡くなるということ、そして、戦争などの惨劇などによって、個人個人にどれだけの深い傷を負うのか。
それらに否が応なく巻き込まれる人たちを見ると、果たして意味があったかどうか、いまだ疑問が残る。
それらの判断が自分がすることはできないかもしれないが、これからの社会を作るにあたり、そういったことがない時代にしていかないといけない。
戦争も言ってしまえば人災でしかないわけで、日本においてもある意味で人災がいまも続いているようなものだ。
これらを、いまから10年たったときに振り返ったときに果たして意味のあるジャッジをしているのかどうか。
そして、自分も含めた、世の中全体、社会全体がどういった方向に進んでいくか。
それらは個々人の意識においてしか変えることはできない。
自分自身の中で意識の軸をもち、社会や生活をどうしていきたいか。
どんなツールも、どんな物事やツールであっても、使い方を間違えたり場合によっては人を傷つけたりする「武器」になりうる。
その「武器」ということを理解し、むやみやたらにそれらを振り回したりしてはいけない。
振り回している限り、相手が対抗するには当たり前のことだと思う。
そうではなく、お互いに武器なんかもたないことで初めて両の手で互いに握手し、相手を理解できるのだと思う。
果たしてそんな世の中にできるかどうか。
これ以上戦争など人が悲しむような世の中にしたくないし、もっと世の中が面白くて楽しくなるようにしていきたい。
そのために自分自身が何を成せるか。
既存の枠組みでなく、どう新しい価値を創り上げていくか。
そしてそのために必要な人達をどううまく結びつけたり、そのために必要な場所や技術や考えは何かを考える。
少しでもあとからの時代から見て意味のあることだったと言われるようなことができればと改めて考えた。
この日に自分自身がいれたことでいままで自分が考えてきたこと、行動してきたことに対する改めてのけじめがつけれたと自分では思っている。
これからの日常を、もっと意味のあるものにしていき、そして意義ある人生を送れればと思う。
それと同時に、ここまで色々な場面でお世話になった周りの方たちに改めて感謝していきたい。
こうやって自分が生きているのもまわりの人達のおかげだし、まわりの人達がいないと自分は生きていけないことは自覚しなくてはならない。
そういった日々生活に感謝しつつ、これからも日常を過ごしていきたいと思う。
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