2015/12/03

オリジンとコピーはどっちがおいしいか

先日、とある料理発祥のお店に食べに行った。値段もそこそこするしお店もそれなりに混んでて繁盛している様子だった。

注文して料理を待つこと数分。料理が到着し食べてみると。うん。たしかに、悪くない。けれども、味は普通、というと申し訳ないが、とりわけて美味しいかというとそうでもない。別に自分の舌が肥えていないとかそういったものでもなく、まぁ、たしかに味は悪く無い、と思うレベル。

よく、色んな地域に行く度に「◯◯発祥」とかを売りにしているところも多いし、東京でも色んな料理の発祥のお店があったりする。えてしてそうしたお店は非常に混んでいるけど、味の美味いかどうかはまた判断が別れるところ。けれども、観光ガイド本などを見るとだいたいがそうした発祥のお店がまとめられてるし、美味しい場所、一度食べるべき、などと味や料理への評価や期待値が高いことも多い。

ここで、「発祥=オリジン」というものを考えてみる。発祥とは、あるモノやコトが生まれたことを指し、「発祥の地」とか、「◯◯発祥のお店」と言われることが多い。ルーツとか原点、元祖、由来とか色んな表現をされることがある。

発祥とはいわばゼロイチ、無から有を産んだ場所であり、かつ、それまで世の中に無かったものをうみだしている。それは、言い換えればそのモノの時間軸がそこから生まれたとも言える。カレーライスはカレーライスとして世に生まれてからの歴史しかないし、インターネットはインターネットとして世に誕生するまではインターネットの歴史はないわけで。

そうしたときに、発祥というのはその新しい時間軸を生み出したことにこそ価値があるとともに、それが現在まで続いていることにおいて、世界で最も長い時間軸を抱えているものだといえる。で、その発祥をもとに例えば修行をしたり見よう見まねでコピーをしたもの、分家、分社したものによっていまの豊かな食文化や製品が生み出された。

発祥のものからヒントを得てその後に続く人たちは、どうにか自分らしいものや顧客を満足しようと独自の進化や改良を加える。それによってさまざま派生が生まれ、ベースや料理名は同じでも、ちょっとした手間や隠し味、調理方法の工夫などが行われる。

さて、発祥のところは自分たちによって創造したものを軸にさまざま改良や工夫を行うだろう。ただ、新しいものを生み出したことによる体外的な評価は、特にそれ自体を維持するための保守的な力が働き、時代のニーズとは違った愛でるものとして存在することもしばしおこる。保守的な力はときにそれ自体を維持するためのコストはブランディングによって、料理であれば味というそのものとは違った評価係数が働きだす。伝統とか歴史というにもそこにはいってくる。もちろん、その発祥のモノを生み出したという功績は大きい。実際に、どのように考案し、どのように生み出し、そして現在まで続いているか、という重層化された時間の重みがある。

なので、発祥のお店に行ったからといって、そのお店のそれが最も美味しいモノとは違う。もっと言えば、ある意味で発祥のときのままの味を軸に維持した正統派なものであれば、美味しさの評価も現代人のそれとはまた違ったものと言えるかもしれない。そこで支払っているものは、料理も含めたそこで生まれたという事実やそれを現代まで引き継いだという手間も含めたものに払っているといえる。よく、発祥のお店が一番美味しい、という言説があるが、それもまた違ってて、人の味覚や趣向は多種多様だからこそ、一元的な、絶対的な評価ではなく、最終的にはその人にとって最も良いと思えるものを選択すればそれで良いのではないか。

もちろん、現代に合わせて味を変化させるお店も多くある。それはそれでお店なりの工夫や手間をしているものだ。よく言われるが、伝統とはただそこにあるものを引き継ぐだけでなく、現代にあわせて変化や革新性を持たせたものだ。つまり、伝統とはある意味で時代における革新性を帯びたものでもある。つまり、伝統と表現するときには、常に時代に呼応したイノベーションが合わさっているわけで、そのための手間を長い時間軸をもった人たちも考えていきながら、多様なモノが生み出されてほしいと思う。

発祥のお店は発祥なりの意味や意義がある。だからこそ、評価すべきポイントや見るべきポイントを変えてみると、世界は変わってみるかもしれない。













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