言葉を使う際に気をつけたいのは、その言葉の主体が誰なのか、というものである。
例えば「ボランティア」。ボランティアの言葉の起源は志願兵、というものが一説にある。その中では、自発性、無償性、利他性を含んだものを指す。
つまり、個人の活動において自発的に行動したいと内発的な思いが含まれたときに、まさにその時がボランティアなのだと言える。もっと言えば、多少自己満足にも近いものがあるのかもしれない。
海外では、とあるNPOの活動においてボランティア活動に来た人に感謝の気持ちを述べると、「そんな感謝の言葉はいらない、なぜなら俺が勝手にやりたくてやってるから。言われるほうが嫌だ」といった節もあるくらいである。
もちろん、そんなボランティアによって、自己実現や自分のスキルを社会に還元する、といった考えがあるのだろう。どういった思いかはひとそれぞれであっても、ボランティアの言葉の主語は個人にある、ということは確かだしかだろう。
「プロボノ」も然りだ。震災によって使われるようになった「絆」という単語もそうかもしれない。「絆」は感じるものであり、絆を深めよう、などのように言うものではない。ましてや、何かを提供する側が受益者に対して「絆」という言葉を使うのもどうにも腑に落ちない。
改めて、日本語について考えてみたい、と思った夜だった。
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