2013/01/22

捨てるプライド、守るプライド

「プライド」というのは、ときに自身の尊厳を保持し、物事に対する自信や自己の軸をもつ。しかし、ときに自身のエゴや慢心によって自己の成長を止め、気づかないうちに自分自身を貶める2つの要素をもっている。

仕事や普段の生活において、自分自身の振る舞いの中ではこうしたことはなかなか気づくことはできない。もちろん、身の回りのことを含めてすべてを自分一人で生きているのならば、こうしたプライドというのを気にせずに生活することができるだろう。しかし、人は一人では生きていけない存在。生きるためには衣食住が必要で、また仕事をするためには必ず誰かと関わって仕事をしなければいけない。誰かとともに助け・助け合いながら僕らは日々を生きている。他者と折り合いをつけていったり、互いに決めたルールを守ることで、自分一人ではできないことをいくつも分業したりしながら個人の幸せを踏まえながら社会全体の満足度を高めることを果たしていく。

もちろん、だからといって他者にすべてを迎合しうまく相手と渡り歩くということも難しい。当たり前だが、自分と相手とでは価値観や意識の共有を完璧にすることはできない。ちょっとした考えの違いや互いがもっている思いや視点が違うからこそ、人は様々なところで衝突しながら日々を過ごしている。コミュニケーションの意味は、それぞれに価値観が違う人同士が、その互いの価値観を次第に共有し円滑なやりとりをするために必要なやりとりのこと。ただ当たり障りのないことだけを話すことがコミュニケーションということではなく、相手と価値観の違いを認識し衝突しつつも互いを認めあったりともになにかをつくっていく行為のことなんだと思います。

そうした、他者とのコミュニケーションにおいて意味をなしてくるのが「プライド」。プライドによって、相手の考えや自分の軸を踏まえて対話をすることで相手のことをわかりあえたり尊敬することもある。しかし、自身のプライドが邪魔することによって、相手の価値観を受け入れることができなかったり、自分自身の保身に走ったり成長のチャンスを逃したりすることがある。プライドが邪魔をして相手を考えを共有することができないこともあれば、自分と相手とのプライドがぶつかることでそこから新しいものが生まれたりする。

そんなことを考えていたとき、以前いくつか出来事があった。一つ目は、もう18歳のときくらいに自衛隊時代の話。
僕は、新人教育時代として10人班に所属しててその班が4つあわさった分隊、そしてその分隊が3つ合わさって小隊になる、全部で120名近い仲間と一緒に訓練をうけていた。その僕たちの小隊の教官の一人に、映画『ロッキー』に似た教官がいて、しかもめちゃくちゃ怖い教官で恐れられていた人だった。僕たちは、その教官に対してまったく太刀打ちできるものがなく、そこで日々のストレスを解消するために、誰が始めたかはもう忘れてしまったがその教官のことを陰で「エイドリアン」と呼んで悪口を言っていた。もちろん、120人全員というよりもそれは一部の人たちで、その一部の人というのがまさしく僕たち10人の班が中心になって言ってた。

しかし、当たり前だがそんな陰口はすぐにどこかからその教官に漏れ、そして、120人全員が揃う夜の点呼のときにその教官から120人全員でそのことについて大きく反省や説教が始まった。教官の指摘は、陰口もさることながらその陰口を放置していた全員にも責任があり、なにも言わないということはそれを容認していた、もしくは連帯責任であるということの重要性を認識していなかった、ということだということだ。自衛隊というのは、すべては連帯責任のもとにおこなわれる。もちろん、今回のケースは上司への陰口なのだが、規律と秩序を重んじる組織である限り、隊のみんなに共有できるようなネガティブなものを、みんながそれをわかっていたけれども遊び半分で放置していた、ということは、実際に有事のさいに何かが起きた時に、ちょっとでも問題が起きたときに改善や指摘を図ろうとする行為をかるんじてることになる、ということだ。陰口もそうだが、例え同じ仲間であってもそれを放置していいわけではないのだから。(もちろん陰口もそうだが、その教官の指摘も納得のいくものであることは言うまでもない。)

そして、誰が言い出したのかということをその教官は僕たちに問いた。もちろん、120人全員の前で名乗り出ろ、ということを教官は言う。そんなの恥ずかしくてできるわけない。もちろん、本当はすぐに自分がやったということを名乗り出ることが一番の解決策であることは間違いない。しかし、名乗り出たら「あいつらか」というように他の仲間たちからもバッシングされるし、自分自身の恥ずかしさから手をあげる勇気がでなかった。

説教や反省の時間がそこそこ経ったとき、急に同じ班の一人であるMくんが手をあげ「自分が言い出しました」と。もちろん、同じ班のMくんは僕たちと一緒に呼び名を言い合ったりしていたが、それでもそんなに積極的に言っている人でもなかった。もちろん普段ふざけたりする人間ではあったが、僕らのように陰口を積極的に言うようなタイプではなかった。しかし、彼の中ではこの場をおさめたい、仲間としての苦労を終わらせたいという思いから手をあげたのだのだろう。(いまではその真意を聞くこともできないし、しようとは思わないが。)

もちろん、そこで説教の時間も終わり点呼も終了し全員部屋に帰り、そのMくんは教官室に呼び出された。そのとき僕は「なんて自分は恥ずかしい人間なんだ。仲間のためと普段いいながら、ここぞというときには恥ずかしてく手もあげれない」ということをいたく反省した。Mくんだけに反省させるのだけはしたくない。そこで、自分も教官室に向かい一緒に反省をうけようと向かった。そしたら、他の班員全員、いや陰口を一言でも言った人全員が教官室に向かい、Mくんだけじゃなく一緒に反省をさせてください、と教官室に詰め寄ったのだ。

教官室に10数人が集まり、そこからは教官から大きな説教や反省として掃除や外出の禁止などがでたことは言うまでもない。しかし、あの120人全員がいたところで自分はなぜ手をあげれなかったのか。それはいまでも心の中にずっと残っている。自分自身の恥ずかしさや怒られたくないという自己の保身がそれを邪魔したのだ。そして、そんな思いをもつそばで勇気をもって手をあげたMくんに対して尊敬をもったことは言うまでもない。自分自身の保身に入ったプライドを後悔した出来事の一つだった。

もう一つこんなこともあった。
少し前に、友人と早朝に2人で道を歩いていて、道の向こうからあきらかにかなり酔っ払っていてる人が歩いてきていた。もちろん、避けようと思い横にずれて歩いたら、明らかに向こうがぶつかって因縁をふっかけようとしてこちらにぶつかってきた。

そこからは、よくある感じでつっかかってきて、謝れだの土下座しろだの言ってくる。僕は謝れと言われれば謝り、土下座しろと言われればすぐにやりました。もちろん、こんな人に土下座をすることに意味があるのか、と言われればそうかもしれません。しかし、僕自身が土下座をして相手が満足すればそれでいいじゃないか。面倒なことに巻き込まれるよりは、そこからいい意味で逃げることを考えることが一番大事だと思ったから。(それと、そのあとに仕事の打ち合わせもあったのですぐにそこを対処しないとそっちのほうが大変だったから、ということもありますが。)

けれども、その人はぶつかった僕だけではなく、一緒にいた友人にまで土下座をさせようと言ってきたのです。それにはさすがに僕自身も許せませんでした。僕自身がいくら土下座してもいいとは思うけど、別にぶつかってもいない友人に対して謝らせるというのはおかしい話。僕自身はいいけどさすがにそれだけは許せませんでした。必死に相手に対して猛抗議。相手も僕らを殴ったりということはさすがにしなかったけど、もし殴っていたならば全力で反撃する覚悟でいました。僕自身が傷ついてもいいけど、一緒にいる友人を殴ろうというのは絶対に許さないと思っていたからです。



プライドというのは、もっていても仕方のないものと絶対に譲れない守るべきものとの2つがあると思います。自分自身の見栄や恥、自分と違う考えをもつ相手を受け入れず、自分の考えに固執するプライドは、自己の成長や社会における共存を阻むものです。自分が傷つくことを恐れ、自分の非を受け入れ謝りや訂正をおこなったり自分の欠点をしっかりと受け入れて相手から教えを請う姿勢、そして自分自身はまわりによって生きているということに対する謙虚さをもちえないまま生きていれば、気づいたら自分のまわりから人はいなくなってしまいます。そうしたプライドは守るものではなく捨ててしまうことが一番です。自分のエゴを捨て、自分が置かれている状況を客観的に俯瞰し、そこから自分自身がなにをすれば一番いい選択肢なのかを考え行動する。それによって、自分自身を成長させると思います。

けれども、捨ててはいけないものもあります。自分自身として許せないもの、自分自身の信念や生きていることの意味に関わること、ここだけは絶対に譲れないと真に相手に表現することができるもの、自分の存在意義を問うものは大切に守るべきものだと思います。僕自身で言えば、他者があって自分が生きているという感謝を忘れず、まわりや社会がどうあるべきか、これからの未来を常に考えていくことが軸にあります。その中で、明らかに道理としておかしいことや哲学をもって行動していないものに対してはあまりよい考えをもちません。なにを目指したいか、手段と目的を履き違えることなく、常に行動していきたいと考えています。

そして、どんなに理不尽なことであっても、その考えや意識が自分自身としてしっかり納得できるものであれば僕は進んでどんなことでもやります。普通だとやりたくないなと思えることも、それをおこなうことで何かが達成したり物事が前に進んだりその場の環境がよくなると信じられるものであえば、例え溝掃除であろうと辛い作業であろうと、その作業を楽しみ、どうやったら効率化を図れるかどうするとよりその作業が楽しくできるのかを考えていきたいと思っています。やることそれ自体ではなくその先になにがあるのか、目指すものがなんなのかということが共有できれば、自分のプライドを捨てても問題ありません。固執して手を抜いたりやらなかったりするようなプライドは、すぐに捨て去ってしまったほうが懸命です。

自分がいまおかれている状況がなんなのか。自分の固執したプライドを守ることが大切なのか、それともプライドを捨て相手を受け入れ自分の失敗や恥を認め素直に受け入れて自己の成長を図るか。それはひとそれぞれです。

今の時代は、自分にここちの良い情報を入手したり環境をつくりだすことは容易です。ちょっと嫌なことがあっても目を逸らしたり違ったところに行けばいまの自分を受け入れてもらえる場所があったりいます。ただ、一度立ち止まって考えてみてください。日々流れるものの中で自分があえて流れに身を任せるものと自分として揺るぎないものがなんなのか、改めて考えてみるといいかもしれません。そして、しっかりとその相手の真意を探り、その人がどういった思いで自分に対してコミュニケーションを図っているのかを理解できれば、どんな辛いことだと一見思うことも見え方が変わってきます。なぜその人はこんな指摘や批評をしてくるのか。表面から伝わるものではなく、その人の奥深くを読み取るべきです。

人は一人では生きていけないと最初に言ったように、自分自身の保身は結局は自身の居場所を自分でなくしていくものにもなってきます。捨てるプライドと守るプライト。自分の判断や価値を捨てるか守るかを常に問いかけ、日々を過ごして行きたいと僕は思う。




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